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第2話 ワールドエンド

 あの子のいない世界に、未練なんてないと思っていた。 「……また、死ねなかったな」  屋上のフェンス、冷たい鉄を掴む手が力なくほどける。  花奏ちゃん、私のたった一人の親友。  自分が欠陥品だと気が付いたのはいつだっただろうか。死ななければいけないという強迫観念に縛られて生きてきた。デストルドー、心に巣食っている。命ごと投げ出したくなる衝動。

次こそ間違えないのだと決めて、屋上に上がり、フェンスを握りしめた。乗り越えてしまえばあとは単純だ。まずは右足を掛けなければ。ゆっくりと、急速に、終わりに向かうように。  …………。 「あっ、八千代ちゃん!」  私の世界の破壊者は、いつだって突然に現れる。 「な、なに、誰ですか?」  サッと足を下ろす。なんでもない様子を取り繕い、慌てて振り返った。  笑顔で立っている彼女を、教室で見たことがあるような気もする。長い黒髪をまとめて垂らした背の高い少女。 「えー、誰って、ひどい! 私だよ、同じクラスの木崎花奏!」  聞いたことのある名前。クラスメイトなんだから、それはそうかもしれないが。  私はあまり他人の顔を覚えられない。否、そもそも他人の顔を見ることができない。一学期の半分に差し掛かるまで、誰とも深く関わることなく過ごしてきた。目を合わせれば、互いを知り合えば、相手はきっと私が欠陥のばけものだということを見抜いてしまうから。できるだけ、誰にも見られないよう、影に呼吸をあわせる。

 そう、私は、死ななくてはいけなかった。  生まれたときから、【悲しい】という感情が缺落しているのだ。それはあまりに浅ましく、恥ずべきことで、だからなるべく人目を避けて生きてきた。無論、友達なんていない。  そして、悲しくないからすべて中立的に、何もかもが見えてしまった。欠けた部分を埋めても余るほどの歪みを目にしてきた。世界のいびつさに、気が付くことなく生きていけるなんて気持ち悪くて堪らない。ただ逃げ出したかった。  死ねばすべて終わると信じていた。 「八千代ちゃんよく屋上にいるでしょ」  心臓がいきなり掴まれたように跳ね上がった。 「え……まあ、はい」  私に近付いてくる。一歩、二歩。 「私もよく来るんだよー」  三歩。快活に笑う彼女は眩しかった。  その日から、花奏ちゃんはよく話しかけてくるようになった。  校内をひとりで行動することがなくなると、自然と前よりクラスメイトの名前も覚えてしまった。

……そんなつもりはなかったのに。

花奏ちゃんは友達が多くて、なんでも知っていて、私なんかがそばにいていいとは思えないが、彼女に明るい声で「八千代ちゃん!」と呼ばれると、そうも言っていられなくなる。  光に焦がれて集まる醜い蛾の気持ちが、今ならわかる。  相変わらず他人と目を合わせられない。ばけものだとは見抜かれたくない。それでも、花奏ちゃんとは境界の擦れ擦れのところまで、近づいてみたかった。それって友達ってことなんじゃないかって、何度か頭に浮かべては消した。  ニュースの端っこ、今日もだれかが死んでいた。どうだっていい物欲やら支配欲やらの下敷きになって死んだ。それでみんな、テレビの中のことだから、他人事の視点で無責任に「可哀想に」とか「許せない」とか適当に言えるんだろう。私には無理だ。真面目そうなキャスターの顔を白けて眺める。

 修学旅行の班も、いつの間にか花奏ちゃんと同じところになっていた。彼女の希望で。

もちろん不満なんてない。  花奏ちゃんがにっこり笑って「明日は楽しみだね」って言ってくれた、今日の別れ際。そのことだけを宝物のように思い出していた。 「おはよう八千代ちゃん」  旅行の当日。ずっと前から来ていたらしい花奏ちゃんが、声をかけてくれた。手を振っている。赤とピンクの派手なキャリーを脇に置いて、少し大人びたワンピースを着て。 「おはよう」  それだけ返すのが精一杯だった。ほんとうは、初めて見る花奏ちゃんの私服がかわいいとか、今日は楽しみだねとか、言えばよかったんだけど、そう思うほどに言葉は私から乾涸びてゆく。そもそも花奏ちゃんには他にもたくさんの友達がいるはずだ。たしか三班は、私の他には花奏ちゃんと、花奏ちゃんの友達の女子二人、合計四人で構成されている。 「まだ出発まで時間あるねえ」  時計を見て、彼女は自分のキャリーの上に腰掛けた。私の隣。  いいの、他の友達と話さなくて。せっかくの旅行なのに、私のことなんか気にかけて。  何度も零れかけた言葉を飲み込んだ。花奏ちゃんが自分の意思でここにいるのなら、言ってはいけないことだった。  行き先は大阪。まずは二時間くらい新幹線に乗って、その後はバスで移動。ずっと花奏ちゃんが隣にいた。前の座席から、花奏ちゃんの友達が花奏ちゃんじゃない女の子と、笑う声が聞こえる。 

昼食を食べて、水族館を見て大阪城を見て、ついでみたいに道頓堀も見た。花奏ちゃんがグリコサインとか、大型ビジョンとかの写真を撮っている様子を、私だけがじっと見ていた。同じ班の子が「篠井さん!」と呼んでいる。篠井さん。私の苗字。理解するのに時間がかかった。私はどこか身勝手に、この人たちから気味悪がられ、嫌われているものだと思い込んでいたのに。普通に、普通の人間として接するのと何も変わらないように話しかけられて、戸惑う。 「篠井さん、ここ、行きたいんだけどいい?」最新機種のスマホ。見せられたのはタピオカ専門店のサイト。私は引っ張られるように頷く。 「花奏もここでいいよね」「そりゃ行くでしょ」「今なら人少ないんじゃない?」オーバーに笑いながら話す、花奏ちゃんとその友達。山野辺さんと、古瀬さん。タピオカなんて、飲んだことがなかった。もっと、都会的で明るくてかわいくなければ飲んじゃいけない、そういう魔法の飲み物のような気がしていたから。ずるずると塊で店の前にきて、みんな、慣れた口ぶりで注文していく。メニュー表にはみたことのない名前が連なっている。結局、花奏ちゃんと同じものを頼んだ。ポップなイラスト入りのプラカップ。ココナッツ味。モチモチの食感。女の子は移民のように、かわいい目的地を見つけては列をつくる。その列の内側こそが倫理で、美しい社会になる。私にはそこに属せている人たちがただ、羨ましかった。氷に挟まって残ってしまった一粒のタピオカを、無理やり吸い込んだ。  自由時間が終わり、私たちはまたバスに詰め込まれ、今度はホテルへ向かう。バスの隣。美醜の判断を飛び越えて、その先でどうしようもなくかわいい花奏ちゃんの横顔。花奏ちゃんにしかできない表情。見つめていると、気付かれて目が合って、にっこりと微笑みかけられる。楽しかったねえ、夜ご飯なにかな、そうやって話をしてくれる。その幸せをうれしいと、罪悪感なく喜べる人間に、なりたかった。胸の奥が痛んだ。  バイキング形式の夕食。白いクロスのかけられた大きなテーブル。班ごとに並んで座る。私はあまり食欲がなかった。花奏ちゃんはデザートのアイスばかり取っている。風呂の時間はお腹が痛いとごまかして、みんなとタイミングをずらして入った。ホテルレストランも大浴場も、人が多いところは苦手だった。同学年の生徒どころか、クラスメイトの名前すら、ほとんど覚えてもいないのに。  部屋に戻ると、花奏ちゃんだけがいた。うさぎのワンポイントがついた、ブルーのパジャマ。 「八千代ちゃん、大丈夫?」  花奏ちゃんの心配そうな顔。優しい彼女は、私がお腹が痛いと言ったことを気にしている。私のうそを、真に受けて、気にかけている。また胸が痛んで、頭に毒が回っていくような心地になる。 「他の、二人は?」 「マナちゃんとさっちゃんなら、二班の……ゆうちゃんたちの部屋に遊びに行ってる」 「花奏ちゃんは、行かなくていいの」 「だって、そうすると八千代ちゃんが帰ってきたとき、部屋に誰もいないでしょ。それはちょっと嫌だし」  私が戻るのを、待っていてくれたらしい。どうしてそこまで、と言いかけて飲み込んだ。代わりにしばらく黙っていた。ありがとうの一言すらも出てこない。胸の痛み、その正体。大切にされるたびになんだか吐きそうになった。人間らしく扱われるたびに。愛されていると錯覚するたびに。

自分がとても場違いな、醜いものだと思い知らされたのだ。 「なんで、そんなかなしい顔しないでよ」  じっと俯いていると手を握られた。冷たい感触、正しさの温度。花奏ちゃんが、細くてきれいな指で、私の右手を包んでいた。  窓から見える月がきれいだった。  次の日、バスは京都へ向かった。清水寺や金閣寺、祇園など、そういうところを見せられながら歩いた。花奏ちゃんも、山野辺さんも古瀬さんも、楽しそうに写真を撮ったり土産屋を覗いたりしていた。夜になると、クラスの誰がイケメンだとか担任の悪口とか将来の夢とか、他愛もない話題が続いた。私はそのどれにも興味がなく、ただ頷いて話を聞いていた。

最終日は疲れてしまい、奈良で鹿にさわったことくらいしか記憶にない。帰りのバスに乗るための集合。みんな、楽しそうにしゃべっている。東京に戻るのが惜しいとか、そういう感情はとくに湧かない。お土産の八ツ橋とソースせんべいの袋。浮かれた人みたいに抱えている。私はそのうち死ぬのになあと、持て余した気分になった。  振替休日くらいは死ぬのを休んで、火曜日になったら死のう。雑な予定を放り投げ、帰ってから丸一日ほど眠って過ごした。  今度こそ失敗したくなかった。木崎花奏という美しい夢、いやこんなふうに言うのが失礼なのはわかっている。花奏ちゃんは、彼女の意思のままに花奏ちゃんでしかない。それはわかっているけれど、私にとっては救世主みたいな、まさしく夢のようなひとに、あんなに近くで触れていられた。

時の流れに幸福が奪われていくまえに、永遠にしたかった。どうせずっと前から死ぬつもりだったのだ。篠井八千代は感情の缺けたばけものなのだ。死ぬのが明日だって、いつだって、なにも変わらない。  お茶の間に流れるつまらないワイドショー。無関心の延長で綴られる、人の生死はエンターテインメントじゃないよ。

 決断の火曜日、私は学校を休んだ。夕方になって、今度こそ死ぬために家を出た。

グッド・バイ。なんとなく心の中で呟いてみる。気分はそれほど悪くなかった。

信号待ち。大きな声で話しながらたむろしている他校の制服の男子。友達だけが社会の倫理みたいな顔で、手を叩いて笑っている。私のことなんて石ころほどにも思わないのかな。ばかにされたくないから、下を向いた。  今日も社会全体が私を押し潰そうとしているような感覚に陥る。街中が私を見下している。お前は孤独なんだと嘲笑っている。歩くペースを速めた。そうして辿り着いたのは、最近できた十階立てのショッピングモール。エレベーターに乗り込み、屋上で降りる。強い風に煽られた髪が頬を叩く。誰もいないこの場所で、私は。  まだ新しい鉄の柵に近付いて……足が止まってしまった。  フェンスの間から、色褪せた街が覗いている。人々が行き交う様子。誰もがこの世界に生きている。感じたことのない焦りが全身を灼いた。いつまでも、息が繋がっていることが苦しい。  死ななくてはいけないのに、私は生きていてはいけないのに。 「……花奏、ちゃん」  なのに、どうして。  あと一歩が踏み出せないのだろう。  あなたの名前ばかりを思い出してしまうのだろう。  茜に焼かれた、冷たいコンクリートの上に蹲る。人生ではじめて、花奏ちゃんに電話をかけてみた。三コールして繋がらなければ切るつもりだったのに、一コール後には明るい声が聞こえた。 『八千代ちゃん! 今日休んでたけど、大丈夫だった?』  私を心配してくれている。頭がぐちゃぐちゃで、うん、とか、まあ、とか曖昧な返事しかできなかった。歪んで白と黒くらいしかなくなった私の視界を、彼女だけは彩ってくれる。  花奏ちゃんは優しい。なにがあっても。  結局死にたい私はいつまでも死ねないで、また一ヶ月ほど、花奏ちゃんと一緒に喋ったりお弁当を食べたり勉強したりしながら、ゆるやかに時間を消費していた。  いつの間にか窓の外に、蝉の鳴く声が聞こえる。








花が咲いていた。

 窓際、前から三番目。木崎花奏ちゃんの席。  ぼんやりと見ていた。花奏ちゃんはたぶん、こんな白い花より、もっと鮮やかな色が好きに違いない。控えめに生けられた色のない菊を睨みつける。いつも花奏ちゃんの鞄に付いていたカラフルなくまのキーホルダーを思い出す。私に貸してくれた水玉の傘や、ビビットカラーの筆記用具。そばにいるだけで人生まで彩るような、華やかな立ち振る舞い。

折角なら、夏の花を手向けたかった。向日葵、ブーゲンビリア、百日紅、アナベル、ランタナ、グラジオラス、半夏生、ダリア……ああ、どれも花奏ちゃんみたいだな。きれいだな。  ……一度でいいから、こういうひとに、なりたかったな。  花奏ちゃんがいたから延命できたも同然のいのちだった。ゆっくりと息を止める。緩やかに終わりを受け入れて、生きるも死ぬも何も持っていなかったころの体温に近づいてゆく。血と肉に追いやられた永遠は、痛みを得て、孤独でかわいそうなふりをする。  みんな、花奏ちゃんがどうして死んだとか、そういうことを好き好きに話している。群衆の妄想の中で、勝手に花奏ちゃんの姿が固められていくというのは、心底気持ち悪かった。  それでも、花奏ちゃんに自殺に追い込まれるほどのことがあったのは間違いないらしかった。いつも笑っていた花奏ちゃん。私は彼女を誰よりも強いと思っていた、信じきっていた。

それがどんなに愚かなことか、考えもつかなかった。死にたがりの私とそれを繋ぎとめてくれる優しい花奏ちゃんという、寓話的なこの構図に、どこか少しだけ酔っていたのかもしれない。  手首を切って死んだこと。母親はいない家庭で、父親から暴行を受けていたこと。花奏ちゃんについての話を聞けば聞くほど、この事実が確かになってゆく。  私自身がどんなに感情のないばけものでも、私の両親はそれなりにきちんとした人たちで、私もそれなりに普通の家庭で生活してきた。だから、そんなものは遠い話のように思っていた。せいぜいがニュースとか、ドラマとか、どこか知らない世界で起きていることだと。  何も、知らなかったのだ。絶望する。血液が沸騰しそうになる。なにもかもが混ざって、堕ちてゆくさまを、じっと見つめる。私の心が心臓が境界がこわれてゆく。  花奏ちゃんのなにをわかって、友達だなんて思っていたのか。  その証拠のように、私は死ねなかった。花奏ちゃんは死んでしまった。生と死に、二人は決定的なほど分かたれた。  どうして花奏ちゃんはあの日、よく屋上に来るなんて言っていたのか。彼女もまた、死のうとしていたのではないのか。不自然な出会い。それでも、私と彼女を繋いだ、かけがえのない出会いだった。  日常は残酷なほど、すぐに取り戻る。中間試験の順位表が張り出される廊下。時計台の影が伸びるグラウンド。定刻に停まる通学バス。私は再び、誰の顔も見ないで教室に蹲り日々を生きる。  花奏ちゃんじゃないのなら、誰とも話したくない。みんな忘れてしまうんだろう。木崎花奏をなかったことにして、知らない何かにそれぞれ価値を見出して、そうして過ぎてゆく時間なんて止まってしまえ。美しい声でうたわれる愛とか希望とか運命とか、きれいなものだけを本物と信じ、俗物的な欲動に太らされて、そんなのが人間だっていうのか。死にたい。どうしようもなく、死にたい。  そうだ花奏ちゃんの絵を描いてもらおう。この世のどこかに、死者の絵だけを描いている画家がいるらしい。その絵を毎晩抱いて眠って、私だけは花奏ちゃんのことを覚えていよう。  くそくらえ、と、道の端に転がっている空き缶を蹴飛ばした。空の赤さが世界の終わりみたいだった。始まりの色では絶対に、なかった。  いや芸術に救われたいだなんて、普通の人間みたいなことを言うなよ。悲劇的な未来予想に酔うなよ。こんな世界、こんな現実、地獄ですらないくせに。  あなたより崇高ないのちなんて、どこにもないよ。  その日、私は生まれて初めて心から涙を流した。  悲しくて、哀しくて、半狂乱になって泣いていた。  泣けないばけものは、こうして呆気なく死を迎えた。  夜になるにつれてだんだんと華やかさを増してゆく街、その裏側。表の賑わいから隔絶し、時代から取り残されたかのように退廃した路地。左右にずらりと並んでいるのは、権利関係に揉まれたままで放置されている錆び付いたビルの群れ。道が一本違うだけでこんなにも違うものか。繁華街の客を引く声や車のエンジン音が遠くで聞こえる。  こんなところに女子高生がひとり。なのに不思議と怖くはなかった。  薄暗いビル。埃っぽい階段を上がると『ATELIER』とだけ書かれた簡素なドアに突き当たる。躊躇いなく押し開けた。 「……いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」  色とりどりの絵画で埋め尽くされた極彩色の空間。その部屋の主が、ゆったりとした動作でこちらを出迎えてくれる。  見つけた。  ずっと前に、都市伝説かなにかで聞いた、心臓のない画家。胸に穴の空いた画家。彼とも彼女ともわからないその人は、自殺者の肖像を描くことを生業としているらしい。  オカルト系の掲示板で知った、画家の居場所。半信半疑で来たのだが、実在したのだ。目を見開いた。噂の通り、画家の胸のあたりは空洞になって、後方の壁が見えている。この人で間違いはないのだろうけれど、思っていたよりも若い。決して高くない身長、薄い金髪、表情の読めない瞳。

私と同い年くらいか、それより歳下だと言われても驚かない。 「あ、あの、お願いがあります」

私は画家をじっと見つめた。 「死んだ友達の絵を、描いてくれませんか」  視線を交わらせる、たった数秒が永遠のように感じる。私は姿勢を正した。画家が、ゆるやかに頷いた。 「まあ、温かいものでもお飲みください。そちらのテーブルにどうぞ」  促されるまま席につく。古びた椅子は、私が腰掛けると木材が軋んでギイと鳴った。  冷めないうちに、と和服の女性がコーヒーカップを私の前に置いた。しなやかな手つき。着物というよりは、花そのものを身に纏っているような艶やかさ。目を奪われる。お礼を言おうとしたが、画家が先に口を開いた。 「それで。その友達というのは、木崎花奏さんという方でしょうか」  言い当てられて、寒気がした。反射で問い返す。 「……どうして、花奏ちゃんのことを」  どうして、私たちのことを。 「教えてもらったんです。僕の友達が、情報通というかなんというか。ヨミと名乗る女の子に出会ったら、一応仲良くしてあげてください」  もし、私だけが知っていたはずの花園が本当はだれかのものだったとしたら、こんな気持ちになるのだろうか。私は、そのヨミさんって人とは……見たことない人にこんなこと、失礼かもしれないけれど、きっと仲良くできない。 「僕の仕事柄、自殺者についての情報は必要不可欠ですので」  無駄のない言葉。柔らかさが削ぎ落とされた眼は、自身の手元にあるメモ書きをじっと見ている。  とりあえず簡単に、あなたから見た花奏さんのことを教えていただきましょう。使い込まれたノートのページを捲りながら、画家が私に視線を向けた。  和服の女性は、いつの間にか静かに画家の後方に下がっている。  私が言わなくてはいけないこと。私から見た花奏ちゃんのこと。彼女がどんなに優しいか、私がどんなに救われたか、何から話すべきだろうか。散々考えて、最初に口をついた言葉は、やや質問の趣旨から外れたものだった。 「私、死ねなくなっちゃったんです」  声に出してからハッとして、少し後悔した。机の模様を目で追いながら続ける。 「花奏ちゃんがいるから生きていて、だから花奏ちゃんが死んだら死ねると思っていたのに。私……、どうしちゃったんでしょうね、屋上の柵を越えるのが今はもう、怖くてたまらないんです。前はあんなに、できていたはずのことが」 「悔しいです。花奏ちゃんにはもっと生きてほしかったです、こんな私なんかより……ずっと……」  死ぬべきなのは私だったと、間違いなく思う。友達の分まで生きるべきだとか、ドラマでは言うけれど、私たちはそうじゃない。花奏ちゃんには、なにがあっても、代わりに私の命を捨ててでも、生きる側に立っていてほしかった。  そして、それが私から見た木崎花奏だったのかもしれない。  唯一明瞭で、迷いなんてなかった。  カタン。相槌を打ちながら聞いていた画家が、ペンをゆっくりと机に置いた。 「そう思いますか。それならば僕から何かを言うわけにはいきませんね……彼女が書き残したものだけでも、受け取ってもらえたら」  画家がロココ調の引き出しに手を伸ばした。二段目から四つ折りの紙を取り出し、こちらに差し出してくる。  私は恐る恐る受け取った。紙と指の境界、私と花奏ちゃんの境界、なんとか保たれている気がする。なぜ画家がこんなものまで持っているのかなどは、もう訊かなかった。  花奏ちゃんみたいな人間になれたなら、どんなによかったかと思うけれど。でも、わかっていたよ、裏側。私は私の血の色をみたことがあるんだもの。 「大体ですが、絵のイメージはできました。あなたがその手紙を読み切ったころ、またここにいらしてください。完成品をお渡しします」  画家の言葉は簡素で冷たい。けれど、いつでも透徹した真剣さが感じられた。 「ああ、ちなみにお代は結構です。……物好きな僕のパトロンが、何故か代わりに支払ってくださるそうなので」  おかしな人ですね。なんて呟く画家の背後で、和服の女性が莞爾として笑った。  「紹介が遅くなりすみません。そのパトロンこそがこちらのツヅさんです、どうぞよろしくお願いします」  ツヅさん、と呼ばれた彼女は、こちらに軽く会釈すると話し始めた。 「よろしくね。ここにある絵画はどれも素晴らしいでしょう。わたくしはこの子の支援者なの」  私の目線は画家を飛び越えて、ツヅさんの顔に移る。画家はすぐ後ろで発される声をさほど気にも留めていない様子だった。 「この子が人間だったときから、私はずっと大ファンだったわ。でもこの子が売れ始めたのは、心臓を失くして、地獄に棲むばけものたちに向けて絵を描き始めてからね。でも私は人間にこそ、この作品たちの美しさを伝えたい。だからここでお手伝いをしているのよ」  ツヅさんの優しい口調には、微かな配意が匂っている。 「えっと……お代、ありがとうございます」 「いいえ、わたくしが好きでやっていることだから。完成が楽しみね」  穏やかに眉を下げて笑う仕草は魂が吸われるほどに美しい。だが、花模様に彩られた着物の裾、一瞬、内側で植物のようなものが蠢いているように見えた。彼女が人間であるかどうかなんて、あまりわかりたくはなかった。  いつまでもツヅさんに見蕩れているわけにもいかないので、ありがとうございます、と何度もお礼を言ってから席を立った。画家が続いて立ち上がり、扉を開けてくれた。 「それでは。美しい来世を……なんてね」  少し恥ずかしそうに吐かれる、画家の決め台詞。掴みどころはないが、どこか憎めない人だった。  

私は最後のお辞儀をして、「また来ます」と狭い極彩色の部屋を出る。

そう、来世は美しい世界でありますように。

私にとっても……『あなた』にとっても。



ある曇りの日、校舎裏の端の方で、子猫が死んでいました。動かないその亡骸を見て、悲しげに表情を曇らせる彼女。その心の内には感情が存在しないことくらい、とうにわかっていました。

異端者は、一人だけとは限らないのです。


ただのクラスメイトでしかなかった彼女と仲良くなったのはほんの偶然からでした。死ぬために屋上に上がったら、ちょうど先客が、彼女が鉄柵を掴んでいたのです。死ぬのだろうな。この人は今から、この柵を越えて。この世から消えるつもりなのだろうな。じっと見て、言いようもなく吐きそうになるのを堪えました。  私は精一杯笑って、快活そうな声を作りました。 「八千代ちゃんだ!」  心臓の打つ音だけがいやに響いていました。かき消すように次から次へと言葉を繰り出しました。どうか死なないように。どうか、見抜かれてしまわないように。  俯きがちな彼女がゆるやかにこちら側へ戻るさまを見て、私は心から安堵しました。話したこともない彼女に、なぜか置いていかれたくありませんでした。

そう、私には一切の感情というものがありません。  先天性なのか後天性なのか、定かではないのですが。中学に上がる頃にはもう、感情の作りかた、笑いかたを“ 覚えて ”いたような気がします。昔の私は大きな声で笑ったり泣いたりしない、大人しくて引っ込み思案な子だと思われていたそうです。  父親には暴力癖がありました。すぐに苛立っては、私や家の壁などを殴っていました。母親は昔の顔しかわかりません。だから、私がうれしいだとかかなしいだとか思えない、空っぽのこころであることを誰に相談しようと、みんな揃って家庭環境のせいだと言うのです。なんだかばからしくなって、このことを他人に言うのは一切やめました。

次第に、私のほかにこんな人間はいないのだと勘づき始め、自分のことをばけものだと思うようになりました。きっとこの缺落は、人間にすらなれなかった証なのでしょう。  学校で、私のまわりの女の子は、いつもセンサーを張っています。移民のようにかわいいものに向かって列をつくり、時間が経てばまた次のかわいいものを見つけて、生活をしていくためです。 

自分にとっては良いも悪いもわからない感動を「そういうもの」だと割り切って、私は無理やりにセンサーを継ぎ接ぎしました。流行りのスイーツ、流行りのコスメ。心得ていれば、友達がたくさんできました。私は明るくて優しい女子生徒でいられました。全部、嘘なのに。

無味乾燥で、ぼんやりした人生。逆に、なにもないから、傷つかないから、なんだってできました。知らない人からホテルでお金を貰おうが、酔った父親に殴られようが、私にはどうでもいいことでした。微塵も辛くはありませんでした。ただ、世界に嘘をつき続けること、それがどんな罰よりも苦痛でたまりませんでした。  虚しくて、何度も死のうとしました。死にたがりの彼女に出会うまで。  彼女には、生きてほしいと願いました。私でいいのなら、隣にいようと思いました。  第一印象は「不思議な人」でした。  髪を二つに結った、背の低い、かわいい女の子。俯きがちで、人の輪に入りたがらず、いつも教室で本を読んでいる。でも、そんな生徒ならクラスに一人か二人はいるものです。特別目立つところもなく、おかしなところもない。それなのに彼女からは生きているような感じがしませんでした。

考えてはいけないとわかっていても、どこか空洞めいた、何も入っていない、血と肉と心臓をかためて辛うじてできている生命なのではないかと思ってしまうほどでした。それでも毎日、普通に私と話をして、笑ったり驚いたりしている。なのに、非生命感、違和感が拭えない……。

私はすぐにその正体に気が付きました。彼女も缺けているのだ。おそらく私ほど酷くはない、感情のすべてではない。それでも何かひとつ、重大な部分に穴が空いている。

そういう人間の表情は、見ればわかります。どれほど人間の姿をしていても、ばけもの同士は、本質でかぎ分けてしまうものなのです。演技をしてまで人間に溶け込もうとして生きている私は、人を避け、俯いて、その代わりあるがまま生きている彼女に、あまりにも惹き付けられました。

できるのならこんなふうになりたかったです。

私は彼女と毎日一緒にお昼ご飯を食べ、一緒に下校するようになりました。修学旅行の班にも誘って、何をするときにも隣にいました。彼女は私に向かって、ときどき薄く微笑みます。私も彼女に、見てくれだけで笑いかけます。けれど、彼女にだけは、本当に本当の笑顔で、相対してみたいと思いました。叶わないとは、わかっていても。

 一瞬の喪失を繰り返して、永遠を手に入れるのでしょう。  彼女がどこかにいる。彼女のやさしい地獄が、心の機微が、この世のどこかにある。それだけで生きていけました。今日もまた誰かが死んで、だれかが死んで、また生きて、いきてゆく。あの子が誰よりも特別だよって気持ちにどこまでの意味を乗せていいだろう。花を、蝶を、美しいと定義したのは人間で、人間がいなければうつくしいものといえば別のものの名前を冠していたのかもしれない。私たちの感情に名前をつけたのも人間です。どんどん名前がつけられて、いつしか名前のないサブスタンスは異端に追いやられ、マジョリティとかマイノリティとか、形骸化された愛情の下敷きになる。私は、自分がヒトの形をして生まれてきたことを、正しいと思ったことはありません。  自傷跡を整形したら安楽死できるだなんて、きっと幻想です。  死にたいと言えば家庭環境のことを心配されるのは、逆に都合のいいことでした。私がばけものであることを悟られず、嫌いになれるほど興味もない父母に全てを擦り付けて死んでゆけるからです。

彼女の隣には、いる資格さえないと思いました。本当は生きたかったのかもしれません。彼女と歳月の過ぎるさまを、夏を冬を見ていたかったのかもしれません。それでも、私は彼女を欺いてまで、善い人間になってまで、一緒にいられるほどは強くはないのです。

苦しさで、心臓が剥がれて落ちて、夢がほどけて、全身がばらばらになってしまいそうです。耳鳴り。私は、生き物の命を脅かすほどの血に触れたことがありません。きれいだなんて、言葉は呪いです。最期に話をしない、そんな倫理を信じていました。泣かない。せめて、嘘でもいいから、形式だけでも、笑って、彼女のことを思い出しました。目を閉じて、息を吸い込んで、ああ、これから死ぬのだなあと、悟りでも開いたような心地でした。  彼女のような女の子になりたかったです。  来世がどうかありますように、神様。  たぶん、これが最後の思い出になるだろうから。あなたが私を忘れてしまっても、私はまたあなたを見つけられるように、地獄まで、いいや生まれ変わった先まで必ず持っていきます。  きっとあなたはこの先、大切な誰かを見つけ、愛や慈しみにいのちを彩られていくでしょう。私はそれを強く望んでいます。だからどうか、生きていてほしいです。遠くにいても、見えなくても、私がずっとあなたの友達でいることは変わりません。不器用で不格好ですが、今私があなたにできる最大の祝福と、祈りと、愛を込めて。  篠井八千代ちゃんに、私が人生で初めて書いた愛の手紙を捧げます。 


 木崎花奏

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