canon:(倫理、芸術において)規範、基準、真作品
私には、八年間の空白がある。
気が付けば、私はずっと、檻の中にいた。
七歳になる頃に病で倒れ、その治療のためだとかで、知らない施設に預けられ
神様への信心深く優しい両親は、私のために安らかなる祈りを捧げ、頬にキスをして、送り出してくれた。まったく、純粋無垢で素敵なことだった。すべての人に分け隔てなく、隣人を愛し、赦し、奇跡を信じている。 だから、私の人生はこの日から、狂ってしまうことになるのだ。聖人君子のあなたがたのせいで。 病なんて、実際のところなんでもなかった。しばらく発熱は続いたものの、一週間ほどですっかり収まった。もう治ったに違いない、もう帰れる、そう思っていた。この白い部屋の扉が開いて、両親が迎えに来てくれる光景を、愚かしくも、夢想していた。 一ヶ月が過ぎた。 半年が過ぎた。 何度も、家に帰りたいと言った。私はもう大丈夫だと言った。 そうして何度も、大人たちから、まだ悪いものは残っている、今は安静にするべきだと、よくわからない話を並べ立てられた。私の脳裏、気味の悪い文字の羅列が揺らいでいる。だれも、たすけてはくれない。救いの手はいつだって、嘘の色をしている。 お父さん、お母さん、あなたがたの敬愛するカミサマは、私を助けてはくださいません。祈りは、届かないのです。
三年、五年、七年。歳月だけが、私のなにもかもを奪うように過ぎていった。 ニュースでは今日も、キャスターの女の人が、外の世界の話をしている。私の知らない世界。 私と変わらない年の少年少女が虐待されたとか、殺されたとか、そんな話題も時々聴こえてくる。
それなら、私は、幸せなんだろうか。食べるものにも着るものにも、学習にさえも困ったことはない。 施設の大人たちは私を、まるで神仏だとかの、ありがたく壊れやすいもののように扱う。ここにいる限り危ないことは起こらないし、暴力だって振るわれないし、酷い言葉を浴びせられることだってない。たしかに、守られている。つまり、幸せ、なんだろう。 不幸だと言ってはいけない気がした。 十五歳にもなれば知恵もつくし、それなりに体力も判断力もつくのだから、なんとかして、この異常な空間を出ようと試みることは可能だったかもしれない。 けれど、私はどこへも行かなかった。どこへも、行けなかった。 この白くて広い部屋にうずくまっていることが、なぜか、どうしたってやめられなかった。それこそ、ある種の病気じみていた。 ♡ 「ねえ」 春も夏も踏みつけた、秋の始まりのことだった。 “ 彼女 ”は、突然目の前に現れた。 この病棟……という名の狂気じみた施設に八年も収容されていて、未だに、私以外の子供を見たことがない。どこから入って来たのだろう。それとも、彼女もまた、私のような……特異なる病人なのだろうか。 高い位置でお団子に結われた栗色の髪。真っ白いワンピース。平凡な顔立ち。
確かにそこに存在しているはずなのに、はっきりと捉え難い輪郭。彼女だけが世界から浮いているような、不気味な感覚。対峙して、過剰なくらいに、背筋を張った。動揺を隠すことだけが、今の私にできる、唯一の虚勢だった。 「あなたの目がほしいの、片方だけでいいから、食べさせてほしいの」 舌足らずな、子供っぽい声。 この現代において人間の目を食べたいなど、オカルティック極まりない馬鹿馬鹿しい話。それが、纏う気配のせいか、どうにも、巫山戯ているようには思えなかった。 「お願い、伽音、お腹が空いて死にそうなんだよう……」 「……差し上げても構いませんが、見返りをいただきましょう」 私は、顔をくしゃりと歪ませた。こういうとき、どんな表情をするべきなのか、わからなかった。 そもそも、同年代の人間との、接し方さえも。 下を向いた。私の、裸足の指は、ひどく冷えきって色を失っている。 「私を、救い出してくださると言うのなら……どうぞお食べなさいよ」 笑った、つもりの顔をした。どうなったってよかった。食べられるのなら食べてみなさい。明日も明後日も人生を諦めるしかなくて、もうずっと、退屈で、空白に呑まれて、私、死にそうなの。 あなたが夢でも幻でも、都合のいいMPDGでもなんでもいいわ、こんな私に新しい刺激を頂戴よ。 「うん、助けてあげる! それでね、これからはずーっと、伽音がまもってあげるね」 無邪気な笑顔。私には到底知りえないような希望に満ちた瞳。伽音……あなたは、伽音というのね。誰だってよかった。ここから出してくれるなら。私を自由にしてくれるなら。 ……それでも、私が手を取る相手は、この子であればと、なぜか思った。 「ああ、そうだ、あなた」 彼女からは、真昼の匂いがした。 「もしも私のこの眼を気に入ったなら」 すべてを明るく照らす、太陽の、匂いがした。 「私に、飼われてくださらない……?」 思えば、ただの倒錯とも言える独善でしかなかった。抑え込まれていた渇望。支配欲。無垢な、自分とさして歳の変わらない見た目の少女の命を、奪い尽くすという。 愚かなかわいい救世主たる彼女。衝動的に、無性にこの手に欲しいと願った。
見苦しくてもいい。まだ世界を知らない私からの、愛の、提案だった。
「それって、ずっと一緒にいても、いいってこと……?」 質問は質問で……それも、考えもよらなかった問いで返された。ええ。迷うことなく、私は頷く。
その様をみとめた彼女は幸せそうに口元を緩めて、またにっこりと笑った。私のさかしまな感情を向けられることがそんなに嬉しいものなのか、心の有り様に付けられる値段は難しい。 無遠慮に頬へ触れてくる、つめたい掌。抱きしめられる。人の感触、匂い、重み、温度。そのすべてが私に寄りかかってくる。小さく、柔らかい少女だった。 初対面のくせにあまりに弁えのない態度。普段の私なら疎ましいと突き放すだろう。なのに、どうしてか、その腕を振り払おうとは思えなかった。受け入れてしまった。 ……だれかがこんなにも近くにいることを許したのは、いつ以来だろう。
「……いただきます!」
恍惚とした表情で、彼女は私を見つめている。私も彼女を見つめている。二つの世界が、美学が、重なり合って、ぐるぐると回り出す。 「ええ、どうぞ」 ここにいる間、自ら選んでなにかを所有することはなかった。与えられるがままで生きていた。
とくに不自由もなかったので、それでもよかった。望みなんてなかった。なにもかも、捨て去っていたから。 それでも、私はたしかに今、私の意思で、この少女を「選んだ」のかもしれない。 空のままだった心に、すこし質量が伴った気がした。 青春を、人生を、取り戻したいとは今更思わない。けれど、あなたのことは欲しかった。かわいい、人のかたちをした、きっと人ではない少女。
あなたが私のこの眼を食んで、満たされると言うのなら。 今日からあなたは、私のものです。 ♡ 少女は強く、私の手を引いた。走り出す。どこまでも続きそうな長い廊下、どうなったっていいと思った。自分と同じくらいの体格の背中を追いかける。夢の中にいるようだった。不思議と、誰の声もしなかった。誰ともすれ違うことはなかった。
誰も知らない。一秒先を越える、今など決して永遠にはならない。私たちは、私たちだけが、光の中にいた。目も綾な風景たち、さようなら。 さようなら。 ♡ 晴れて、私は両親のもとへ帰ることができた。 というよりも、奇怪なことに、気が付いたら自分の家の前にいたのだ。八年ぶりに見る景色。変わっているようで、なにも、変わっていなかった。私がここにいることは、みとめられていいような気がした。視力を失った片方の眼。狭まった視界が、半分しか見えなくなった空が、あの出来事が真実であると、告げている。
チャイムを押すと聞こえてきた、懐かしい足音。玄関の扉が開く音。 父も母も、泣きながら私の無事を喜んでくれた。こんな私には勿体ないほど、優しい言葉をかけてくれた。ありがとうありがとうと、虚空だか神様だかに何度も手をあわせ、頭を下げていた。 左目を覆う眼帯については、病気のせいで目が見えなくなってしまったのだと、嘘をついた。これも私の健康と、奇跡と引き換えに、神様がお与えになった試練なのだと、適当に彼らの納得してくれそうなことを言っておいた。両親はひどく悲しそうな顔をしたが、それでも私が完治してよかったと、励ましてくれていた。本当に本当に、どこまでも、善良すぎる人たちだった。 その日の晩、テレビをつけると、火災事故のニュースが流れていた。こんなにおめでたい再会の日には、あまり見たくない類の話題だ。チャンネルを変えようと、リモコンを探す。 建物内部にいた全員が死亡……悲痛な顔でキャスターが告げている。私は、見まいとしていたはずなのに、画面に映し出されていた写真に、釘付けになってしまった。 そして、目を疑った。 夢であって、ほしかった。部屋が冷たくて、指の先が白くなっている。意識をしっかり掴んでいないと、倒れそうだ。破裂する。息が詰まるのをどうにか堪えて、顔を上げて、目の前を捉える。 液晶に広がった光の粒。睨みつけるように、凝視した。 事故が起きる前の写真。綺麗な白い建物。 それは、偶然にも……。
そう、偶然なのだ。偶然、私が八年ものあいだ閉じ込められていた、あの施設の外観を、していた。 「伽音……」
十五歳。私は初めて、この現象の……彼女の名前を、呼んだ。
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