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第1話 生存権マルメリ

 死にたい私が他人を生かすためになんとか始めたのが音楽でした。

 私、マルメリ・マリイは令和の世をときめくアイドルです!

 なんてね。私、鞠井茉莉。今は何故かアイドルという肩書きでやっていますが、本当はシンガーソングライターになるために上京しました。けれど、アイドルでも歌手でも、手段はなんでもいい。

 音楽で、誰かを生存させたい。それが私の夢なんです。

 私は、音楽を愛しています。


 先週、ライブの差し入れに同封されていた手紙を聖書のように開いた。これで何回目になるかはわからない。いつまでそうしてしまうのかもわからない。

 ただ、これを開かずに済むようになったときにようやく、私の少女としての呪文が大成される気がする。

 今日もまた、切り紙に飾られたフラップを捲った。 『マルメリ・マリイ様

はじめまして。 いつもあなたの歌に、言葉に、活力をいただいています。

本当はこのお手紙を書くかどうか迷いましたが、あなたの生み出すものひとつひとつが大好きだという気持ちや、感謝の気持ちを伝えるなら今しかないと思い、書かせていただきます。なぜ今しかないのかというと、私はもうすぐ死ぬからです。

何もかも歪んでおぞましく見えて、何が正しいものかもわからなくなって、それでもあなたのことだけは変わらずに好きでした。人生の最後に、横浜のライブであなたの歌を聴くことができて良かったです。

こんな私の人生に彩りを与えてくださって、ありがとうございます。

私は死んでも必ずあなたのことをおぼえています。あなたはどうか美しいひととして、どうか、ずっと生きていてください。

いつもかわいくてはかなくて、誰よりも人間らしい神様のあなたのことが、存在が、生きる糧でした。誰よりも大好きでした。

こんな手紙を、読んでくださってありがとうございました。これからもずっと、マリイさんにたくさんの幸せがありますように、心から祈っています。

またお会い出来る日を夢見て。

森戸 香菜乃』

息を吸い込む。

ゆっくりと目を閉じる。

レースペーパーの感触。乙女の祈りを閉じ込めた、赤い薔薇の封筒。

この遺書めいたファンレターを、私の世界に染みるように、完結させていく。

読み終えても泣かなくなったのは、何度目からだろうか。

貰った当日は、控え室で読んだことを後悔するほどに酷かった。友達に乗せてもらった帰りの車で泣き、宥められながら家に着き、また泣いて、実家のママに電話までした。

みんな、嘘みたいに「人はそんなに簡単に死なないから大丈夫」だと声を揃えて言っていた。

特別、親しい相手から差し出されたものというわけでもない。それなのに、この世の何よりも美しく私の心臓を突き刺した、二枚の便箋。

森戸香菜乃ちゃん。

私がギター一本でストリートライブをしていた頃から、ときどき地上波の電波に流してもらえるようになった今まで、ずっと応援してくれている女の子。何度も握手をしたり、手紙を受け取ったりしているから、顔や名前はよく覚えている。ややくせっ毛の黒髪。背は高くて、スレンダーな印象のある女の子。どこか儚げで、不安定に揺らめいていて、今にも消えてしまいそうで、見かけるたびに心配になる。

骨ばった細い手首には幾つも蚯蚓の這ったような跡がある。それでも私と握手をするとき、しっかりと両の手を握るとき、彼女の瞳にたしかな命が宿るのを見る。

悲しい気持ちを消すことはできない。悲しむなとか、笑えとか、他人の感情にそんなことは言えない。私は誰かの生きる意味や死なない道徳を独断で定義して歌いたくない。

代わりに、すこしだけでも生きていてよかったと思ってもらいたくて、歌った。さみしいとき、マルメリ・マリイの音楽が聴き手に寄り添えるように。

そして香菜乃ちゃんはいつだって私と対面するとき「マリイさんが死ぬことをゆるしてくれるからわたしは生きられます」なんて、笑ってくれた。だからまだ大丈夫だなんて心のどこかで思っていたのかもしれない。私はとても愚かで、薄弱だった。

香菜乃ちゃんが死なないことを祈る、それだけしかできない不甲斐なさが、彼女の名前の形をもって私を突き刺す。緩やかに、確かに、首を絞めて引きずり込まれるように、呪いの中へ溶けてゆく。


ふと、一匹の蝶が開け放っていた北側の窓から部屋に入り込んできた。

都会にもまだ生き物の住む余地はあるらしい。童話めいた瑠璃色をした羽が上下するさまを、私はしばらく眺めていた。その動きに触発され、現実にピントを合わせてみる。誰も私のことをなんにも知らないし、私だって私以外のことをなんにも知らない。

フォロワー七万人の、架空の神様。 「死の匂いがするわ」

一人暮らし。私の他に誰もいないはずの部屋で、女の子の声がした。

生きる気力が失われるほど、急速に背筋が凍りつく。言葉が私の中でざわめいて震える。乾きそうなつばを飲み込んだ。碌なものでないことはわかる、わかっている。それでも私は、その少女らしき声の裏側を、脳の奥を、覗き見るように振り向いた。 「だ、誰ですか」 「あんたこそ誰よ、ここはいい空き家だから気に入ってたのに」

間髪入れずに放たれる、不法侵入者の傲岸な返事。すこし、拍子抜けしてしまった。

そこにいた少女は、私が身構えていたほどの、怪しい変態にも恐ろしいばけものにも、到底見えなかった。かわいさと、うつくしさと、他の素晴らしいなにかを混ぜ合わせてできたようなルックス。透明に見えるほどの色素の薄さ。端正な顔立ち。例えるなら、私が子供の頃にテレビでよく見ていた、女優の佐野山瑠奈に似ている。

彼女の髪に映える、今しがた部屋に入り込んできたのと同じような青い蝶の飾り。不思議な色合いのそれは、クロスの壁に光を跳ね返している。

猫のように爛々ときらめく瞳。じっと見られると動けなくなりそうだ。 「こっちから名乗るのが礼儀ってものよね。あたしはヨミ……あんたは?」 「……鞠井茉莉です」

一瞬、どちらを名乗るべきか悩んだ。

彼女が求めているものはアイドルとしての私か、人間としての私か。他人と対面するとき、最初にそこを気にしてしまうのは、染みついた悪い癖だ。 「知らない? 白いワンピースの幽霊が出るって噂の四〇四号室」

まさかとは思ったが、四〇四号室。この部屋のナンバーだ。 「ま、その噂の正体はあたしなんだけど」 

噂については知らなかった。けれど、そもそもこの家には、駅近なのに驚くほどに安かったから入居した。ワケあり物件でもおかしくない。黙って女ひとりを住まわせた不動産屋のことは、少しだけ恨んだ。

でも、それだけ。

私の性質はそれなりに柔軟で、ヨミさんという存在も、そろそろ受け入れてしまいそうになっている。早すぎるのかもしれないけれど。アイドルをやっていたら、それなりに変な人にも会うし。

百鬼夜行よりもっともっと怖いおじさんたちに出待ちで追いかけられたりも、するし。しなやかに、フレクシブルに、居るものは居る、あるものはある。それでいいんです。 「私、ここよりもう少し西の方で、首を吊って死んだのよ。死者にはわかる同じ死の匂い、それがあなたの手紙からしたのよね……」

幽霊といえど、実体はあるらしい。彼女の白い指は、質量を通過することなく私から手紙を奪い取った。 「ふーん、森戸香菜乃ちゃんかあ、ふうーん」

この幽霊はあまりにも自己中心的で、横柄だ。幽霊ってもっと、じめじめしていると思っていたのに、彼女には翳りがない。様々な種類を読んできたつもりの怪談でも、こんなタイプはみたことがない。どうしてこうも快活な人が首吊りなんてしたんだろう。非科学的な存在。この好奇心を具体的なものにできなくても、私は生きていけるかな。


「ちょっと、やめてくださいよ」 「なによ、読ませなさい」

無遠慮に手紙を読み始めるヨミさん、取り返そうとする私。

ピンポーン。

二人の女が押し合うのを遮るように、呼び鈴が鳴った。

機械的な音にヨミさんが顔を顰める。私は咄嗟に動くことができなかった。 「…………」

ピンポーン。

もう一度鳴る。私は緩慢な動作で立ち上がり、仕方なく玄関へ向かう。狭いワンルーム。やや遅れて、手紙を持ったままヨミさんもついてくる。 「はい」

扉を押し開けると、少年のような少女のような……小柄な人物が立っていた。 「突然すみません、ヨミさんを呼びにきました」

中性的な顔立ち、身体のラインが隠れるような黒い服。彼、もしくは彼女は、色素の薄いおかっぱ頭を前に垂らしてお辞儀をした。 「あ、はい。ヨミさんなら、」

長く目を合わせていられないような、不思議なオーラがある。引き結ばれたような無表情は、どこか柔らかく幼い。 「……っ!」

普通の人間を相手にするつもりで、真っ直ぐに対面して、息を飲んだ。その人の左胸、心臓の位置するあたりが抉られたように、ぽっかり穴が空いている。

彼または彼女は、私の視線にすぐ気がつき、淡々と口を開く。 「ああ、怖がらないでください。そういう身体なんです」

静かな微苦笑に覆いかぶさる、絹を裂くような鋭い声。 「そうよ! この世にはね、不思議なことがたくさんあるの!」

いつの間にか、私のすぐそばまで来ていたヨミさんが笑った。目の前で静と動、対照的な二人が並ぶ。 「僕には名前がありませんので、『画家』とでもお呼びください。僕が失くしたものは、名前と心臓の二つ」

画家。それなりに珍しい職業だとは思ったが、私だってアイドルだ。

心臓と名前がないだなんていうのは、オカルトサイトに投稿したら話題になりそうなものだけれど。何もかもを見透かしていそうな、澄んだ琥珀の瞳。巫山戯ているようには見えない。 「ヨミさんがまた碌でもないことをしているのではないかと、連れ戻しにきました」

抑揚のないその声は、私と話していながら、同時にヨミさんに向けても投げられていた。ヨミさんが食いかかるように言い返す。 「別に何もしてないわよ!」 「僕たちが他人の生と死に干渉してはいけません」 「面白そうだから見に行っただけじゃないの!」 「そもそも、幽霊といえど人様の住居を侵害してはいけません」 「むむ……」

ヨミさんは画家を睨みつけたきり黙った。画家に軍杯が上がる。 「ほら、行きますよ。押しかけてしまいすみません」

少女の幽霊を押すように、画家が頭を下げた。また青い蝶が数匹、私の前を飛び去っていった。 「それではお騒がせしました」

ガチャン、扉の閉まる音が響く。あとには何も残っていない。

……なんだったんだろう。

もしも、私だけが見ていた幻なのだと言われても。私はそれを否定するすべを少しも持っていない。

都会には人が多すぎる。コンビニで買えてしまう眉唾でキッチュな心霊談。

四〇四号室に棲みつく少女の霊。少年とも少女ともつかない、胸に穴の空いた画家。

この世にはね、不思議なことがあるのよ。

昨日、ヨミと名乗った幽霊の言葉が脳内で揺らめく。『夏に読みたい怪談特集』なんてポップが書店の店先を飾っていた。死者が還ってくるにはまだ早い、六月。

家に帰るため、バスに乗り込む。空いている後ろの方の席に座って、イヤフォンを耳に押し込んだ。

容量もギリギリになってきたスマートフォンから流れる音楽。「ゆめいろAmor」。アイドルの皐月ゆめみを世に知らしめた代表曲。死にたかった頃の私を救ってくれた曲。中毒のように、毎日毎日この曲ばかりをリピートして過ごした時期があった。世界が優しさだけでできていないことをひどく憎んで嘆いて、その度に再生した。

別段、聴き手に人生の希望を語りかける曲ではない。寓話的な恋愛歌。そこに生や死のなにものも存在しない。だからこそ惹かれたのかも知れない。耳に残るキャッチーなイントロから、変調で躓きそうになるサビの部分。その環の中へ突然に引き込まれ、こんなにも美しい音楽を、どうして私はまだ知らなかったのかと衝撃を受けた。この曲が存在する世界なら、私は見放したくはない。  さらに、思った。私も音楽を作らなければ。享受するばかりで、なにも生み出せないまま死んでいくわけにはいかない。受けた恩をどこにも返さないなんて、誰が許してくれたとて、私が許せなかった。

だから私も、うたを歌うと決めた。

生きて、音楽できっとだれかを生存させたい。皐月ゆめみのように。

歩行者の信号が青に変わる。人と人が交差する。人間の美学だなんだと重く尊いものを乗せて、正当性だとかを大事にしながら。正しさだけで人はどこまで生きてゆけるだろうか。バスは、規則正しくバスターミナルに入ってゆく。

雨に濡れきったバス停。扉の閉まる音に驚いた雀が二羽、飛び去っていった。

遠くまで連なる灰色の街並み。埃っぽいコンクリートに閉じられた世界。なにもかも、見慣れた光景だ。明日世界が滅ぶとしても、この場所だけは変わらない気がする。

たったひとつだけズレがあるとするならば。

 道の奥に浮かび上がる、寂しさを照らすようなぼんやりとした光。その先には、鳥居にも見える、けれど少し風変わりな赤い門。明らかに狂いの生じた一角。

 こんなところに神社なんてあったっけ……?

 私は通り過ぎることができなかった。アスファルトと工事中の看板ばかりの視界で、鮮やかに聳え立つそれは、異様な存在感を放っている。向こう側に、どこへ続くか見当もつかない、長い階段が伸びている。

 空気に悪いものが混ざり、こちらへ伝い、得体の知れない物体に対する好奇心が膨れ上がってゆく。無闇なものに触ってはいけない、そう理解はしていても。

 つい、誘い込まれるように一歩、踏み出してしまった。

 カサリ。

 足元で、何かを踏んだような音がした。下を向くなり、私は驚いて後ずさる。先刻までの恍惚とした心地は一瞬にして冷えきって、私の目を覚ました。人気のない高架下。私の歩いてきた道沿いに、蝶だったものが点々と青色の羽を撒き散らし、ばらばらになって死んでいたのだ。

 青い蝶、といえば直近の記憶からヨミさんが思い起こされる。鋭く光る、蝶を模した瑠璃色の髪飾りは彼女のアイデンティティのようだ。それから、彼女の周りを飛んでいたおとぎ話めいた蝶の群れ。

 最初から、やめておけばよかった。目を合わせるから、奪われる。

 あまりに奇怪な光景。痛いほどの顫動が背中を駆け抜ける。背後に視線を感じるが、振り向くこともできない。空間ごと凍みついてゆく、永遠にも似た瞬間。

…………。 「あんたの帰るところはこっちじゃないでしょう?」

 その張り詰めた静寂を破ったのは聞き覚えのある高い声。

 私の右手は、いつの間にかヨミさんに掴まれていた。 「危なかったわね」とこちらを気遣う彼女の肩のあたりを、一匹の青い蝶が横切り、消えていった。 「鳥居が、」と口走る私に、美しい幽霊は囁く。「あたしがこの世のものじゃないこと、忘れたわけじゃないでしょう」と。  一瞬、快活なヨミさんの本質はとても怖い存在なのではないかと思った。彼女の吊り気味の瞳が、以前より恐ろしく光って見えた。そんな私の不安を他所に、彼女は嵩高に話し続ける。 「まあ、丁度よかったわ。そもそもあんたに言いたいことがあって、探していたのよ!」  悪戯っぽく笑って、こう付け加えた。 「あいつがいないうちに言っておきたいことだから」  あいつというのは、きっとあの画家さんのことを指しているのだろう。芝居がかって声を潜めるヨミさんの、長い睫毛が揺れた。 「あたし、一度死んで蘇ったからかしら? 誰がどこで自ら生命を断つのか、なんとなくわかってしまうの」 「そう……なんですね」 「だからあの画家と組んでるのよ、あいつの仕事は自殺者の肖像を描くこと。つまり、あたしがモチーフになる奴を予知して、あいつが絵にする」  突飛な自己紹介。そんなファンタジー、まさかとは思ったが。どうしても嫌な予感がした。ヨミさんの、細められた猫目に鋭く見つめられる。その色の美しさが、余計に不安を掻き立てる。  そうして、静かに『予言』がされた。

「あの手紙を書いた子は、今日、あんたのよく使うライブハウスが見える屋上から飛び降りる」


 手紙。香奈乃ちゃんのことだ。季節の隙間が、また私を置いてゆく。誠実でありたいと願う。プリズム。ヨミさんの髪が白くきらめいている。嘘でしょうと問いかける勇気なんてなかった。 「今のを聞いてあんたがどうするか、あたしは決めない。だってこれ、ご立派な営業妨害だものね!」  たったの二日で何度も見た、幽霊のくせに溌剌とした彼女の笑顔。営業妨害。たしかに、あの画家にとって、私のやりたいことは妨害行為そのものなのだ。 「……それでも」  確信に近い、ものはあった。 「行くのね、うん、まあそう言うと思ってた」  私は黙って頷いた。真横の道、水溜まりの上を車が通り過ぎてゆく。 「さようなら人間さん。また会えたらいいわね」  ライブハウスがあるのは奇しくもこの辺り。高層のビルなんて数えるほどしかない。ならば見当はつく。 「ありがとう、ヨミさん」 「よくってよ! Have a beautiful after life!」  別れ際は流暢に、芝居がかっていた。大きく右の手を振る仕草。やっぱり女優の佐野山瑠奈に似ているなあなんて、他愛もないことが血液の代わりに脳を巡る。  人は死んだらどうなるのだろう。心は何処へ行くのだろう。どうしていつか死ぬと決まっているのだろう。死ねない人間であれば、神様になれるのだろうか。雨上がりで泥濘む道を、只管前へ進んだ。間に合いたかった。もし、ヨミさんの言っていることが全部嘘ならそれでも構わない。その方がいい。誰も死なないのなら、それに越したことはない。  このあたりで一番高い建物。第二ビルの入り口が見えるなり飛び込む。十五階まではエレベーターで上がり、そこから屋上までは階段を使わなくてはいけない。上昇しきって、ピンポンと間の抜けた音が鳴る。私は飛び出した。仄暗い、灰色の階段を駆け上がる。無機質な視界、単調な靴音、その先の光の中に、命が終わる場所があるとすれば。  一段、二段、足を進めるたびに永遠がこちらを覗いていた。悲しみで咲く花、私はきっと赤いリボンをかけて花束にしたい。愛情というものに基づいてしまった負の感情を抱きしめる。重い鉄の扉を押し開けた。  途端に目に飛び込んでくる青。六月の雨上がり。夏に向かってゆく澄んだ気配。世界の始まりのような洗いたての空。

 ああ、ヨミさんの予言は本当だったんだ。  錆びた鉄柵の向こうに、彼女はいた。 「香菜乃ちゃん!」  考えるよりずっと早く、走り出していた。  握手会で、リリイベで、何度も見た線の細い身体。  私が叫ぶのに驚いて、香菜乃ちゃんは振り向いた。大きな瞳がさらに見開かれる。 「マリイ……さん⁉ どうして……」 「あとで説明する! とにかく、こっちに戻ってきて!」  焦燥感から、奪い取るように香菜乃ちゃんの細い手首を掴む私。対する彼女はこれから死ぬとは思えないほどに穏やかだった。私を見つめる満足げな笑顔。ゆるやかに目を伏せて、首を横に振る。 「いいえ、それは、できないんです」  いつも握手するときに見せてくれる、うっとりとした表情。  まずい、と思った。全身の血が冷たくなる。だめだよ、それは。言おうとしても喉が渇いて、声にならない。 「ああ、死ぬ前に、最後に、会えたのがあなたでよかった。この夢が永遠に覚めなければいいのにな……」  香菜乃ちゃんが笑って、梅雨のブルーへ足を滑らせた。  私に手を握られたまま。  端っこで、誰にも気が付かれず死んでゆく、そんなひとが世の中にはいること。その孤独を生涯知らないままで、ファンの女の子の手をとる罪。見えないものは、なかったことになる。いつもなにかが傷ついている。誰かが誰なのかもわからないで、私は誰かを救おうとする。命に追いつけないだけの永遠を人生と呼んで、好きな服を切り裂いて、終わりのあるものを美しいものと決めつける。  間一髪。フェンスに身体を押し付けて、香菜乃ちゃんの右手を握りしめる。まだ、終わらせるわけにはいかない。

香菜乃ちゃんは細身だ。私だってアイドルになって、うまく踊るため、それなりに鍛えていた。とはいえ、人間一人を腕の力だけで引き上げようだなんて。ギターなんて比べ物にならない、いのちの重さ。 「どうして、あなたと私は他人じゃないですか。どうしてそこまで、しようと思うんですか」 「それは……」  言葉に詰まる。どうしてかなんて、考えたことはなかった。見ず知らずではないにせよ、何度か会っただけの存在。 「マリイさんにとって私なんて、何万人のファンの中のひとりじゃないですか」  それはそうかもしれない。そうだけど、でも全然違う。私は、サイリウムの色でしかわからない客席の人の、配信の閲覧数でしかわからないリアルタイムの、それを作っている人間そのものを愛しているつもりだ。  だって、公園でギターを弾いていたときから、その接し方しか知らないんだもの。  それに、あの手紙。一人きりで死ぬつもりなら、世界の端っこで孤独死するつもりなら、私に書いたりしなかったでしょう。SOSに見えたとは言わない。それでも、絶対に、私との繋がりを、生きたことを、残そうとしたんでしょ。  汗が頬を伝う。今、香菜乃ちゃんのいのちのすべてが、私にかかっている。ぎゅっと歯を食いしばった。 「あなたは素晴らしいひとです。もうなんのために生きているかわからない、こんな私なんて、見捨ててください」  香菜乃ちゃんが震える声で訴える。けれど。 「生きていく理由なんて、一生わからなくてもいいよ」  それは、私の信条だった。  私は音楽をつくる人になりたいわけじゃない。ただ、誰かの生きるを歌うための音楽になりたかった。遠い日に、マルメリ・マリイが生まれるきっかけとなり、鞠井茉莉を生存させた、あの曲のように。もっと遠くまで、なによりも、音楽になりたい。 「……っ」  腕を掴む力が緩みかける。時間が経つにつれ、手が凍みるほどに痛む。どうして、どうして、私にはこんなにも力がないんだろう。いつだって口だけはご立派なくせに、目の前で死にそうなこのひとを助けることもできないなんて。 「マリイさん、もう……もう離してください」  死なせて、と掠れた声で呟く香菜乃ちゃんを否定する。嫌だ、死なせない。皮膚の境界が曖昧になるほどに強く手を握り直す。どうか、どうか……どうか死なないでいて。そう思うことの理由なんてわからない、ただ、この手を離したらきっと私は生涯をかけて後悔するだろう。自分が悔やむことのないように、そう、はじめからぜんぶ、自分のためだった。  歌で人を生存させたいだなんて、エゴでしかなかった。 「かなのちゃん」  心臓が大きく脈打った。足りない酸素を求めて必死に息を吸う喉が、胸が、痛い。必死で掴む腕が千切れそうで、骨まで痛い。 「もうすこし、もうすこしだけ待って、もう一度生きて」  痛い。痛い、痛い、けれど。生きていく痛みに比べたらこのくらい。彼女の今を生かす、くらい。  生きていくって、死ぬより痛いことだから。だから。 「嫌だよね、そりゃあこんな酷い世界じゃ死にたくもなるよね、でも……っ、でも待ってよ、マルメリ・マリイの音楽をまだ聴いて! 私はずっと歌うから、聴いて、きっと香菜乃ちゃんなら、わかる。……わかるから」  なんて身勝手な懇願。傲慢な訴え。そう判っていても、止まることが出来なかった。 「私もね、昔はずっと生きているのが恥ずかしくて、死のうとして、それでも音楽に救われて、人生とか変えられて、うたをがんばってアイドルになって」  自分でも何を口走っているのだと呆れるほど、整頓されていない、乱雑な言葉。

それでも香菜乃ちゃんに撃ち込むつもりで吐き出す。心臓を狙う。双眸から零れ落ちる涙は知らないふりで、続けて声を絞った。 「香菜乃ちゃんがいつも、私がいいって言ってくれるから、私は香菜乃ちゃんのために歌うよ。ねえ香菜乃ちゃん、酷いこと言ってるよね、誰がどんな思いで、死ぬとか死なないとか、わかんないよ私。わかんないくせに死ぬなとか言ってごめんね、だけど……!」

喉が詰まる。こんな世迷言を捲し立てるしかできない私は間違っているに違いない。だからといって、正しさで何が救えるだろう。

レースペーパーの感触を思い出す。マルメリ・マリイのカラーである、レッドが使われた便箋。ねえ、私はきちんと知っているよ。あなたの中に、神経がめぐっていること、血が流れていること。 「お手紙、読んだよ! 読んだから、来たんだよ……‼」  そうだよ、だから私はここに来たんだよ。  浮かんだ言葉を順に装填する。あなたを軽視しない証拠となるものに名前はない。お手紙。この言葉に香菜乃ちゃんの大きな瞳が揺れた。しっかりと視線を絡ませ、しばらく息遣いだけを聞いていた。汗と涙の貼り付いた顔を苦痛に歪ませた私はきっと醜かっただろう。

見下ろす、ファンタジーに満ち溢れた街。新宿とか渋谷とか、好きになれないと、女の子が殺されるのはどうしてだろう。春のように、夏のように、じっと幸福な振りをする。ほんとうはそんなこと、しなくたっていい。なのに、いつからか、それが日常から追い出されないための生きるすべになってしまった。

七十億の心音を、不幸を、悲しみを、均一に並べることなどできない。あなたがどんな理由で死を選ぼうとしたのか、私は知らない。あなたを護るやわらかな呪いの色は、私に見えない。

メディアの手で安っぽく永遠にされた言葉が、永遠なんてないんだと笑う。

「マリイ、さん……」

……香菜乃ちゃんが、やっと私の手を握り返してくれた。

ささやかで脆くても確かな生きる意思。体温が繋がる。この痛みが永遠に終わらないとしても、私は。


生きていく意味と死んでいく理由がぐるぐる廻る。

あと何回血を流せば、だれも悲しまないで済むのだろう。

濡れたコンクリートで擦れた腕に、血が滲んでいた。よく見るとシフォンのブラウスも破けて、酷い有様だ。下の方で、人だかりができている。こちらをさす指、叫ぶ声。私たちの騒ぎに、見物人が集まってくる。 「っ、マリイ、さん……私、もう」  汗で湿った手が滑る。私たちを繋いでいる生命線がほどけそうになる。体力が奪われ、痛みで指先の感覚はとうに虚ろだ。もう一度意識だけで握りしめようとして、すり抜けた。  もうダメ、だと思った。神様は残酷だ。 「たすけ、て、ヨミさん……!」  なぜ、ここでその名前が口をついたのだろう。  目を瞑る。零れた声は、頼りなかった。


「案外、早い再会じゃなくって?」

私たちの命は、体温は、まだ繋がっていた。




「どうして……!」

目を見張った。私の隣で、真っ白いワンピースが風を含んで広がる。ヨミさんが、剥がれかけた香菜乃ちゃんの手を、しっかりと掴んでくれていた。私も急いで、もう一度両手で香菜乃ちゃんの右手を握りしめる。 「あんたが呼んだんでしょう」  どこか楽しそうに呟く彼女の横顔は、シネマティックに美しかった。 「お手伝いします」  その後ろに、画家が立っていた。以前見たのと変わらない無表情。黒い服が、弱い日差しを吸い込んで揺れる。 「僕は他人の生死に干渉しない主義なのですけれど、これは鞠井さんを助けるためだと思うことにします」  淡々とした声色。差し出される白い腕。どうして、名前を知っているのだろう。そもそも、どうしてあのとき、私の家にヨミさんがいると。 「ときに、鞠井さん。今日は空の青さが目に滲みますね」  前屈みの姿勢で、画家が呑気に語りかけてくる。今はそんな場合じゃないでしょう、と抗議しようとして、やめた。香菜乃ちゃんの身体がゆっくりと引き上げられる。彼女の空いている方の左手が、フェンスの支柱を掴んだ。 「……空が青いからとか、そんな理由でもかまいませんよ。生きていく意味なんて」  脳内に響く、柔らかい声。 「……あなたもそうでしょう、マルメリ・マリイさん」  ギャラリーの通報によって、ビルの管理人と消防隊員が屋上へ駆けつけたとき。現場に残されていたのは私とマリイさんだけだった。マリイさんとともに、私を引き上げるのを手伝ってくれたどこかの二人はいつの間にか姿を消していて、私がそれに気が付いた頃にはすべてが終わっていた。  どうしてこんなことをしたんですか、と管理人さんたちに問いただされる私。柵の向こうに物を落としたから、拾おうとしたんです。そしたら足が滑って……。なんて、咄嗟に嘘をついてしまった。  屋上まで来ていた野次馬や、いつの間にか湧いた記者たちに揉まれて、猫背気味に顔を隠すマリイさん。人気沸騰中のアイドル、マルメリ・マリイお手柄。明日にはそんな見出しがネットニュースに輝くだろう。ファンの命を救った聖女は恥ずかしそうに俯いて、人の群れに踊らされ消えていく。  こうして、本来いるべき場所に向かって二人は分かたれた。  私はきっとこの先、今日死ねなかったことを後悔すると思う。あのとき死んでおけばと、苦しむ日が。  それでも、それ以上に生きていたいと、生きていてよかったと、マリイさんを見るたびに思い出すだろう。今なら、手首の傷だって愛してあげられる気がする。  美しい呪いの色。祈りを込めて抱きしめる。

いつかの私とあなたが、また出会うために。



「やっほー、鞠井ちゃん」 ヨミさんたちとまた会えるまでに、あまり時間はかからなかった。 夕暮れどき。日が傾いて闇が潜み始めるころ、この世のものではない現象も、動き出す。 「また会えましたね」 彼女の後ろで、画家が軽い会釈をした。私も頭を下げて応じる。 「あたし、あんたのアパート卒業して、今こいつのアトリエに住んでるから。寂しくなったら遊びに来なさいよ」 「頻繁に来られても困るのですが、一応どうぞ」  画家に差し出された小さな紙には、新宿区の住所とビルの名前があった。 「他言無用に願います」 「はい」  それは勿論、頷くしかなかった。なんだか新しい友達ができたようで嬉しかった。画家の、柔和さを含ませている琥珀の瞳が好きだ。  帰ってすぐ、新しい曲の作詞に取りかかった。色々な方から耳にタコができるほど「次はもっとアイドル路線で」と言われているが、なかったことにしてキーボードを叩いた。  まだ、メロディもきちんと纏まっていなければ、使う楽器も決まっていない。それでも、あの日のことを、祈りを、消えてしまう前に描きたかった。


 マルメリ・マリイは、七十億人の生きる理由なんか歌わない。  見たことのない空の青さを、知らない窓から覗く青春を、出会っていない人との恋を、歌わない。夜明け前に薄く張り詰める死にたい気持ちを歌わない。誰の生きたいも歌わない。完成した言葉を歌わない。ただ、この目で見た等身大の生命を、心を、生きるために学んだなにかを、歌うかもしれない。死んでしまった人に電話をかけたくなる気持ち、たくさんの有り様、自分だけが錆び付いていくような感覚、叶わない約束、私たちはどれだけ溶け合っても他人同士であること。  音楽家を目指すのではもう遅くて、隙は埋まらなくて、だからはやく音楽になりたい。

 そうしてきみの体温になれたら、きみの生きるを、歌うかもしれない。

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