top of page

第3話 朽ちた花の色

「ねえ、茉莉ちゃん、ファンにそうしてるみたいにさ、俺のことも救ってくれなきゃおかしいよね。前に女の子の自殺を止められたんだから、俺のことだって救えるはずだよね」

嘘つき、それでよくそんな音楽が作れたな、よくそんなうたが歌えたな、飛んでくる罵倒の言葉たちを背中で弾いて、走った。

走って、走って、走って、このまま命が尽きてもいいから、どうか逃げたかった。

助かりたかった。

……。…………。 「いや、別れえや」

無我夢中で飛び込んだ、都会のはずれにあるマンション、その一室。

カーテンが閉め切られた空間。真っ黒い家具が影のように並び、昼間は電気が付いていない。デスクトップパソコン、ノートパソコン、ヘッドフォン、謎のコード類、高そうなオーディオ、唯一の得意楽器だって言っていたキーボード。アイドルとしては同業者、そして私のたぶん一番の友達、汐留ゆりの部屋。 「だ、だって、しおちゃん」

汐留ゆり、こと、しおちゃんはいつも、的確に鋭く、言いたいことだけを言う。私はそのたびに返答に窮してしまう。 「私と別れたら、シュウくん、今度こそ死んじゃうかもしれない……」

言葉は終わりにかけて、弱々しくなる。彼は本当の本当に、死んでしまうのだろうか。でも、死ぬと口にしていたのだ。死。息が詰まった。絶対なんて、永遠なんて、人が生きられる保証なんて、どこにもない。ある日突然、美しい呪いのように、死へ足を踏み外すことだってある。

……あるのだから。 「死なへん」 「でも」 「死なへんって」

取り合ってもくれなかった。しおちゃんは痛いくらいに正しい。正しいから、その言葉が突き刺さるほど痛い。わかっている。けれど、どうしても、素直に頷くことはできない。

すべて保身なのだ。悪者になりたくない私の、後ろ指をさされたくない私の、狡い逃げ口。彼を死なせない、そうして私は、十字架を背負わない。 「あんたの身体はひとつしかないのに」

しおちゃんが囁いた。 「なにがシュウくんやねん、一人で生きるか死ぬかも決められへんもんを構うな。自分の身体は自分のもん、マリイさんは音楽、やらんと」

その声にはすこしだけ、なにかの、感情が滲んでいるように思えた。けれど、彼女の本質は、後からイコライザーで持ち上げなければいけない類の音みたいに、いつも遠くに沈んでいる。今の彼女の情緒の揺らぎの正体にまでは、私では辿り着けなかった。

そうだね、って言うのが、精一杯だった。

馬鹿みたいな話だけれど。私は、誰のことも嫌いたくないと思って生きてきた。

実体もないだれかに見放されることが、嫌われることが、どうしようもなく怖かった。

だからまずは自分が相手を嫌わない。だからいい顔をする。すぐに笑って、頷いて。ただの偽善なのかもしれない。私から、差し出せるものなんて、なにもないから。それを隠すために。だれかに、この存在をなんとか容認してもらうために。

きれいな言葉で軽々しく他人を庇うことで、自分の心も防衛しているだけの、空っぽの愛情。

しおちゃんなら、どうだろう。

私より三つも年下の、彼女は強かだ。いつも好き放題振る舞って、ときどきインターネットでひどい叩かれ方もしているが、だからなんなのとでも言わんばかり。平然としている。嫌われることを気にも留めない。その分、他人のことだって簡単に嫌いになる。

割り切りの速さは、本当に羨ましいところだ。 「男に構ってる暇ないで、昨日コラボ第二弾の、メロディのラフ渡したやん」

しおちゃんはいつも、自分のペースで喋り始める。

黒いソファの上で胡座をかいて、だらしない姿勢のままで、二人で作ろうと相談しあった曲のことを口にした。 「聴いた、最高だった」

私はつい、話に身を乗り出した。

彼女は音楽の天才だ。私だって作詞作曲もするけれど、絶対にしおちゃんにはかなわない。

ピアノ・ロックをメインスタイルとして、聴いた者をどこへでも連れていってくれる美しい音楽性。本人は音楽を辞めたい辞めたいと言い続けているけれど、音楽への渇仰がなければ、あんな世界を生み出し続けられるわけがない。指先ひとつで世界さえも終わらせてしまう魔法。そういうものが、しおちゃんには備わっている。

私は年下である彼女に、音楽に関して、完膚なきまでに負けている。不思議と悔しいとか、勝ちたいとかは思わない。ただ祝福したい。守りたい。許されるのなら、同じ景色を知っていたい。音を奏でたとき、そばにいてほしい。神様にだって救えない未来を、音楽で、しおちゃんと共に見ていたい。 「ねえ、あれさ、嫌じゃなければ……ギターのところ私が弾いていい? 編集とか調整とかはしおちゃんのやり方でいいし、何かあれば合わせるから」 「ほんまに? ええやん、今度ギター持ってきてえな」

しおちゃんの猫みたいな丸い目に、パッと明るい光が差したのを見た。音楽を、心から信じている人間の顔。ほんの一瞬。それでも、私にとっては大切な瞬間。

今度。しおちゃんと私の間に、また次がある。ギターを持ってこよう、ついでにそのときキーボードも弾いてもらおう。

不思議と、重苦しい気持ちはなくなっていた。 「あ、そういや、タイトルどないしよなあ、とりあえず呼びやすく仮で付けとくか……TikTokとかで流行るくらい売れてほしいから今の流行りに肖ってドルチェ」 「いや、ありえないんだけど」 「どうせ変えんねん、ドルチェカッコカリで」 「そのうち怒られそう」

笑っちゃう。毒でも薬でもない、なんにもならない話。

私たち以外には、世界の誰だってこの瞬間を知らない。ただ毎日のように繰り返すだけ。しおちゃんの機械的に整った二重瞼に、薄く塗られた黒いアイシャドウがキラキラ光っていた。交わした言葉が空気に溶けて、私の身体を、血液みたいに巡っていく。

なんとなく、自分はしおちゃんに好かれているのだと、思う。確信も証拠も、どこにだってない。

なのに、どうしてか、思うのだ。それはただ「そうあってほしい」という欲から出た、まやかしなのかもしれないけれど。

なぜそう感じるのかと聞かれたとして、答えはやっぱり説明できない。

断らず家に泊めているから? ギターを教えたことがあるから? 

……そんなことで、この孤高の存在が他人に気を許すとも考えられなかった。

だって、しおちゃんは、本当はとても怖い人なのだ。

その理由は冷徹そうな外見でも、クールな雰囲気でもない。だって彼女は意外とよく喋るし、よく笑う。生配信で何時間も喋り続けて、弄りコメントには煽り返して、場を盛り上げている。納期ギリギリだの仕事したくないだのを平気で口にして、でも音楽の才能は絶対に確かで、ファンからはどうしようもない天才っていうキャラクター性で愛されている。

だからこそ、怖いのだ。

意外と話しやすいだとかいう、外見とのギャップ。思ったより大丈夫そう、ワンチャンあるかもって思いやすいよね、死んでもないんだよ。

その壁一枚をこえた先で、自分に踏み込んでくる一切を許さないんだから。 「マリイさんよう男なんかと付き合えるわ」

しおちゃんが、机に置かれたペットボトルの蓋を開けながら、思い出したように口を開いた。 「しおちゃん、男の人、嫌いだよね」 「まあな、だって」

しおちゃんが目を伏せた。その表情がどうにも寂しそうで、言わなきゃよかったかな、と悩ましい気持ちになった。 「男の人の目、わかるんよ。あー今うちのこと、どうやって食うか見てんなあって。あれがほんまに気持ち悪いねん。だって、いつだって狩人はうちの方やのに、得体の知れんやつらにそんなふうに見られてるって気づいたら、死にたくもなるやろ」

私は、彼女の恋愛の……いや、欲望の対象が女であることを知っている。美しい蝶たちを食らう食虫植物の如き本性を、知っている。

死にたくなる。よりも先に、心はすぐに死に至る。しおちゃんは、他人と長く関係を続けられない。正当なお付き合いとしての恋愛が全くできない。これまでずっとそうだったし、改善する気だってないのかもしれなかった。

女の子が好きで、隙のある子を見つけてはすぐに手を出して、一夜で自分のものにする。インターネットは最高のギフトだ。今どきオープンでも珍しくない両性愛者はもちろん、相手が異性愛者でも関係ない。ちょっとアブノーマルなことに興味あります~とか、今の彼氏に飽きたから刺激を求めてます~って子なんかは、すぐに餌食になる。

嘘が上手くて、甘美な言葉をたくさん知っている。でも、それだけなんだ。それ以上なんてない。

口先だけのロマンスに心なんてない。次の展開はいつも、真っ暗。

手にしては倦んで、奪ってはまた求めて、喰らい尽くして、それでも足りないと嘆いて。絶対に、一夜より先の関係を好まない。連絡はすぐに絶ってしまう。そうして次から次へ、目新しく美味しいものを欲しがる。流行りの味を探している。

彼女が本当に掌握したいものは、掴んだら離さないものは、なんなのだろう。他者を拾ったそばから捨てていくその姿はどこか、人との接触そのものを嫌悪しているようにも映る。私の勝手な、想像だけれど。 「最近はちょっと、誰とも遊ばず健全に生きてるけども」 「へえ、珍しい」 「まあ、あの……配信者の女の子釣ったりしてたん、この前めるにバレたから……」

めっちゃ怒るんよ、怖いねん、しかもうちやなくて相手の子を殺しそうな勢いで恨むねん、そんなん見てたら流石にちょっとやめとこ思うやん。

ヘラヘラ笑いながら、自分のユニットの相方について語る。そんなことだろうとは思っていたが、なんにも悪びれていなかった。

めるさん、顔は見たことあるし、しおちゃんから時々話を聞いている。直接言葉を交わしたこと自体はない。

とても背が高くて、周りのアイドルと比べても飛び抜けて歌がうまい子だ。ツインテールの良く似合う、童顔寄りの丸い顔、大きな目。説明不要と言いきれるくらいわかりやすく、しおちゃんのタイプの外見をしていることは確かだ。

めるさんのことはどうでもよくないから手を出してない、らしいけどね。 「もう、ちゃんと謝っておきなよ」 「好き勝手生きてて、酷い女やろ。多分もう、こればっかりは死なんと治らへんわ」

軽薄そうに笑って、自虐する。巫山戯ているだけなのか、それとも先回って防衛線を張っているのか、私には読めない。ただ、不真面目に話す彼女の真っ直ぐに通った鼻筋が、控えめな唇のラインが、羨ましいほどにきれいだった。

すると、しおちゃんが突然、神妙な面持ちで私に向き直った。案外感情の定まらない人だ。私もつられて、口元をぎゅっと引き結ぶ。 「うちと違って、マリイさんはなあ。人の望むことにばっかり答えすぎなんやんな。いや悪いとは思わへんけど」

真剣な眼差し。自分より何歳も年下のくせに、人生の先輩みたいなことを言ってくる。 「マリイさんにとって、シュウくんだとかはどのくらい特別な人間なん? そいつ、よう考えたらマリイさんの人生を邪魔してへん?」

特別な人間。脳内で反芻する。どのくらい、特別か。

考えたこともなかった。自分で選んだことなどなかった。

私の返事を待たずに、しおちゃんは続ける。早口で、大きな眼を見開いて。間断なく。 「マリイさんは優しいからみんな大切にしてるんやろうけどね、うちにはマリイさんの意思がわからんわ。マリイさんは……誰がマリイさんに何をしてほしいかじゃない、マリイさんが誰になにを求めてるか、自分でわかる? ほんまにそのへんな彼氏とどうにかなりたいん? それとも自殺を助けたとかいうファンの子と? それか別のアイドルの子と?」 「……どうなん、だろう」

私はたったの数十秒で、心底困ってしまった。

答えられない。

なんのひとつも、答えられないのだ。

こうかもしれない、とか、こうだったらいいかな、とか。それすらも浮かばなかった。

空白の埋まらない、この身体。 「だってマリイさん、もし今別の男が『僕と付き合ってくれないなら死ぬ!』ってこのマンションの屋上から叫んだら、悩んだ末にOK出してまうやろ」

正論すぎる。打ちのめされる。しおちゃんの言う通りだった。

苦しくなる。私の浅はかさも、卑しさも、見透かされているのかもしれない。

心の柔らかいところを言って、嫌われたらいやだから。気を逸らすように、質問で応えてしまう。 「……じゃあ、しおちゃんには、特別なひとって、いるの?」

じっと、しおちゃんの真っ黒な瞳を見た。この問いかけに、解なんて必要ない。 「特別……って言うてええんかわからんけど」

しおちゃんが珍しく考え込んで、言葉を詰まらせる。 「……おるかもしれへん、ひとりは、絶対に」 「どんな人?」 「んー、マリイさんには内緒やなあ」 「その人のこと、大切?」 「うん」

なんて狡い質問だったんだろう。私、本当はね。

さすがに、私の名前を呼んでほしかったわけじゃない。そこまで厚かましいことは言わない。けれど。

うちにそんなもんおるわけないやん、そう言って笑う、しおちゃんの顔が、見たかったんだよ。

そうして、やっぱり、彼女が孤高であることを、安堵したかったのだ。

もうすぐ同居人のめるさんが帰ってくると言うので、邪魔してはいけないと、私はしおちゃんの部屋を後にした。

しおちゃんは、相方である彼女と一緒に住んでいる。広めの2DKマンション。立地が最悪で築年数もそれなりだから都内にしては家賃が安いんだって、前に話してくれたのを覚えている。

表札にもポストにも、書かれているのはしおちゃんの本名である「白金」のみ。私は、この家に何度か来ていて、めるさんに会ったこともなければ、苗字も何も知らない。

カーテンの引かれた管理室の前を過ぎる。エントランスの自動ドアが開く。外の空気はすっかり冷えている。

道路へ続く石の道。目を疑う。そこで待っていた人が、いた。 「……シュウくん?」

どうして。口から出しかけた疑問は、言葉には満たなかった。 「茉莉ちゃん、遅かったじゃん」

なんでもない素振りで。何も変わらない笑顔で。 「心配したよ」

……どうして? もしかして逃げた私を追いかけていたの? ずっとここで、しおちゃんのマンションから、私が出てくるのを……待っていたとでも言うの?

不安と焦燥。言葉にすることで、現実味を帯びてしまうのが怖かった。だからなにも訊ねられない。

怖い、どうしたって怖い。外気は温かいはずなのに、指の先はどんどん冷たくなっていく。 「よかったら今からうちにおいでよ」 「ええと、」

恐ろしくて堪らなかった。平常通りの声の様子。もう、目もまともに合わせられない。心臓が激しく波打つ。気が動転して、思考の内から言葉を掻き出すことさえままならなくなる。酸欠の肺が痺れている。 「え、えっと……ごめん、今日は、しおちゃんが、もう、早く帰ったほうがいいって……」

震える声で喉から絞り出した返答。まただ、また、私は自分の意見を言えない。押し潰されるのが怖い。だから、誰か自分以外の名前を出して、説得力を得た気になってしまう。

しおちゃんが言ったから? 私が、私の本心が、今すぐ帰りたいと願っている、はずなのに。 「……は?」

シュウくんの目付きが、気の立ったものに変わる。十秒前までは優しかった、ものが。

けれど、それはそうだ、と思う。 「また汐留かよ」

言われたって仕方がない、とも思う。

また汐留。その言葉が心臓に冷たさを持って突き刺さり、抜けない。凍るように、痛い。

シュウくんが態とらしく溜息をついた。私はいつまでも、自分の赤いパンプスに視線を落としたままで動けない。 「そいつ、音楽の才能ある子だとか茉莉ちゃんはいっつも言うけどさ、どうせ中身はくだらないやつだろ、俺ほど茉莉ちゃんのこと考えてあげられないだろ、そんなのの言うこと、聞くの」 「やめてよ、友達を悪く言わないで」

私の言葉は弱い。鞠井茉莉は弱い。音楽がなければ、ステージの上でなければ、マルメリ・マリイとしてでなければ、自分の考えの端っこすら、表明することができない。 「俺、これまで茉莉ちゃんに、色々買ってあげたよね。サプライズだってしたよね。ぜんぶ、茉莉ちゃんが大好きだからやってあげたことだよ、俺がどれだけ茉莉ちゃんを大事にしてるかわかる? なのに、大したこともしてないそいつを選ぶの? あんまりだよ」

耳元の神経に絡みつく、怒りを含んだ声。どこまでも私に取り憑いて、撃ち殺そうとばかりに、次々と棘入りの回転弾倉は回る。


私は、言葉で、だれかの夢に、生きる希望に、なれたらいいなと思っていた。歌に乗せたら、なんだって紡げた。優しい言葉の幻想を、追いかけ続けていた。

言葉が、こんなに、鋭利で恐ろしいものだと、実感したくはなかった。たった数秒で、いとも容易く人間を傷付けられる。萎縮させられる。言葉が武力として扱われる現実を、できれば死ぬまで、見たくは。 「茉莉ちゃんがそんな子だなんて思わなかった」

……吐きそうだ。 「期待して損した」

…………吐きそうだ。どうして、こんな世界。

茉莉ちゃんの音楽を、ずっとそばで応援したいと言ってくれた人。嬉しかった、だから、考えさせてと二度引き伸ばした末に、三度目の告白は受け入れた。

シュウくんが誇れる音楽家になろうと、これまで以上に音楽に打ち込んだ。愚かだったかもしれない。浮かれていたのかもしれない。それでも正解でありたかった。けれど、次第にシュウくんは、私が音楽に傾倒するたび、私を応援してくれる人が増えるたび、怒るようになった。

シュウくんは私に怒鳴ったあとは、たいてい、自分は優しいと言った。自分ほどに優しい人間は珍しいと、茉莉ちゃんのことをここまで考えられるのは自分しかいないと。茉莉ちゃんみたいなひどい女を、もらってやれるのは自分だけなのだと。少しは感謝してほしいと、迫られた。

もちろん、いつだって有難いと思っている。楽しい思い出だってたくさんある。それでも、私がどうしたって、優しいはずのシュウくんがこんなに傷ついてしまうのだから。

なにが駄目なのか。私になにが足りないのか。それを、考えるほどに脳の奥は混濁した。

呆れるくらいに不完全だ、私は。この命は。

はじめからなにもわからないんだ。 「一昨日だって、家に来て料理とか作ってくれるって言ったのに、結局来てすらくれなかった」 「……シュウくん、一昨日は友達と遊んでたよね……。私が途中で邪魔したら相手の子にも申し訳ないから今度にするねって、連絡もしたし……」 「それでもあとから来てくれたっていいだろ⁉ 時間変えるとかさ!」

ていうか茉莉ちゃんさえ言ってくれれば俺は友達なんか帰らせて茉莉ちゃんを優先したのに! それだけ茉莉ちゃんを愛しているのに! なんで来ないんだよ! そうやってシュウくんが捲し立てる。けれど、どうしても、それには頷けなかった。私のために誰かが無碍にされる。私のために誰かの心が、約束が、なかったことにされる。そんな愛なら欲しくなかった。受け取れなかった。 「私が、悪いのかな」 「そうだよ、茉莉ちゃんが悪いよ、茉莉ちゃんのせいで俺はいつも悲しい」 「……じゃあ、さ、」

……。

…………。

………………。 「じゃあ、別れようよ」

私がシュウくんを傷付けちゃうから。一緒にいて辛い思いをさせてしまうから。それなら別々で生きたほうがいい。

喉を絞った。語尾が震えないよう、胸に、心臓のあたりに、力を入れた。そうして吐き出した言葉のせいで。


私は殴られた。

あまり鮮明には覚えていない。気が付いたら私はよろめいて、右肩は熱を持っていて、ああシュウくんがやったのだなと、察するに近い形で理解した。 「これをDVだとか言うなよな!」

目が合った。焦って取り繕うような、シュウくんの上擦った声。 「俺だってずっと心が痛い、俺は茉莉ちゃんのせいで精神的にDVされてるようなものなんだから、一発くらい普通だろ!」

私、何も言ってないのにな。

シュウくんが言葉を重ねれば重ねるほどに、可哀想なひとだなあと、どこか俯瞰的に見てしまった。汚染。熱を持った肩のあたりから、じわじわと細胞が汚れていく気配がした。非現実めいた妄想なのはわかっている。それでも気持ち悪い。気持ち悪い。せめて洗ってしまいたい。

視界が一瞬だけ、ばらばらに壊れて、すぐに元通りになった。

あれ、おかしいな。あんなに、好きだったはずなのに。

……好きだったっけ。

今、目の前にいる人が。私にとってはどんな怪現象よりも、怖くて怖くてどうにかなってしまいそうなんだ。

足の震えが、おさまらない。

握りしめていた赤いスマートフォン。透明カバーの下に挟んだプリクラ。私はすこし変なところを見てしまっていて、でも、隣のしおちゃんが珍しく自然な笑顔だから、この写真が好きだった。「マリイさんめっちゃてんさい」私の胸元あたり、角張った汚い字で、ネオンが綴られている。

死ねるほど悲しくなった。

ずっと、こんなに、幸せならいいのに。

この人じゃなくて、しおちゃんがそばに、いてくれたらいいのに。それが悪い望みで、思ってはいけない、罪悪でしかないことだと、わかってはいても。

無意識に、指が動いていた。 LINEのトーク履歴の一番上。病んでいるわけでもなんでもないのに、年中真っ黒一色のアイコン。しおちゃん。 『たすけて』 『マンションの前』

送信。無我夢中だった。 「なんで俺と話してるのにスマホ見てんの?」 「えっと……」

いつだって、言い訳の言葉を探している。都合よく、生き延びられる、きれいな言葉ばかりを。 考えろ、考えろ。でなければ死んでしまう。 「誰かに連絡してたの?」

責め立てられるたび、死なないために次の一手を絞り出そうとする。今の私は、草原を逃げ回る野ウサギだった。 「…………」

なんとか言えよ、なあ、茉莉ちゃん。腕を掴まれる。振りほどこうにも、私の力なんかじゃ到底及ばない。引っ張るほどに、手首が痛んだ。その感覚が、私の心臓に刺さって、血をめぐらせて、現実を見せつける。

思い出の中のシュウくんはもう、決定的なほどに、どこにもいなかった。

私の手を離してくれない、彼は何者だろう。 「まあ、誰かっていうか、どうせまた汐留ってやつのところに逃げるんだろ」

毒を含んだ刃。私に振り下ろされる。シュウくんは、しおちゃんの話をするときはいつも、より一層険しい顔になる。 「なあ、知ってるかよあいつ、噂じゃ女好きのレズなんだぞ。どうせ茉莉ちゃんのことも狙ってんだろ、そういう目でしか見てないんだろ、気持ち悪い!」

…………。

私は、この人のことを。

好きでいなければいけないと思っていた。

彼がそう言うのだから、結婚だって、しなければいけないのかもと思っていた。

どんなに酷い未来だとしても、一度愛したものには殉じなければと。

約束なら命を懸けなければ、と。 「なんだよその顔、俺は茉莉ちゃんのことが好きだから心配してるんだろ」

いつもそう言ってくれるよね。

でも。

……でも!

確信して、しまったから。

……たぶん、もう、私はあなたを許せないんだ。

継ぎ接ぎでなんとか保ってきた心に、修復不可能な亀裂が走ったような気がした。 「はあ、そらどうもすんません」

聞き覚えのある声がした。だれか、なんてわざわざ考えなくてもわかる。絶対安全の、保証が付いた声だった。マンションのロビーと繋がる、ステンレス製の自動扉の前。部屋で見たときと何も変わらない、しおちゃんが立っていた。 「しおちゃん!」

夢みたい、だった。

彼女の顔を見たら、そんな場合じゃないのに、音楽の話で盛り上がったあの黒い部屋に引き戻されたのにも似た心地がした。ああギターを持ってこなきゃな、そう咄嗟に思ってしまった私の思考は、とうに惑乱しきってめちゃくちゃになっていた。 「なんでいるんだよ、お前!」

シュウくんがここに来て初めて、私以外の人間に意識を向けた。詰め寄られても、しおちゃんは至っていつも通りにあっけらかんとして、自分の背後を指さす。 「なんでおるんやとちゃうねん、白金さん家がここやねん」

聳える、古めの八階建てマンション。 「ていうか恥ずかしいから家の前で騒がんといてください」

いつだって、しおちゃんは言いたいことを言う。怒っている相手だろうとお構いなしだ。私はいまにシュウくんがしおちゃんに殴りかかりはしないだろうかと、気が気ではなかった。 「茉莉ちゃんが呼んだのかよ!?」 「ええと……」 「マリイさんは関係あらへんから、あんまり大きい声出さんとってくれます? うちが家から出てきたらちょうど友達がおって、気になっただけで」

毅然とした対応。私では絶対に、言えない類の台詞。

関西方言のイントネーションが若干の緩和剤になって、まだ柔らかい印象を残してはいた。 「お兄さんもお忙しいのんと違いますの? こんな遅うまで立ち話せんでも」

しおちゃんは薄く笑って、シュウくんと目を合わせる。相手に聞かせるためか、先程より口調は丸みを帯びている。顔全体には“はよ帰れ”と書いてある気がしないでもないが。 「忙しいっていうか、お前が邪魔してるんだよ、俺は茉莉ちゃんと大事な話をしてるだけで……」 「そんな、堪忍したってくださいよ。お兄さんも疲れてはるやろし、マリイさんもずっと立たされて可哀想やろ、また明るいときに仕切り直しましょ」 「お前が勝手に決めるなよ」 「そらすんませんねえ」 「それになんなんだよ、茉莉ちゃんが可哀想って、俺が加害者みたいな言い方……」 「だって怒鳴って、怖いやん」 「だからこれは必要な話し合いで……」 「……あんた思ったより会話になれへんな」

しおちゃんが気だるげに首を振る。 「もうええわ、うちが優しい言うたってんのに、さっきから初対面で『お前』はあらへんやろ、ゲロみたいな顔しよって偉そうに」 「ゲ……なんて!?」「しおちゃん!?」

私とシュウくんが、ほとんど同時に驚きの声をあげる。しおちゃんは「ハッ」と息を吐いて笑った。私は反射的に身体を強ばらせる。とても、機嫌の悪そうな笑い方だった。 「早う帰れ言うてんねん、言葉はわかりはる?」

いつの間にか、しおちゃんの声には冷たいものが混ざっていた。そこそこ友達の関係を続けてきて、こんな彼女の声音は初めて耳にした。怒っている、のかもしれなかった。 「ええ加減にしといてね」

路傍に捨てられた塵でも見るような、冷酷な驕慢の瞳。

正当性だとかを大事にしながら。正しさだけで人はどこまで生きてゆけるのか。彼女は今どうして、誰のために、こんな顔をしているのだろう。 「ほんまにここ、うちの前やから。あんまり騒がはるんやったら通報しますけども」

シュウくんの顔が、みるみる映画の殺人鬼みたいな色になる。何かを言い返すためか、彼が息を吸い込んだ、そのとき。 「ねえ、お兄さんお姉さんたち」

声をかけられた。知らない、幼い女の子の声。咄嗟に振り返る。

制服の少女が立っていた。小柄な体躯に傾いた陽の光を浴びて、にっこりと笑っている。

いつからいたのかはわからない。大きな眼、その表情。脳に焼き付く立ち姿。きっと逃げられないのだと、本能がざわめく。

その子はどこかあの人と……画家さんと同じ、匂いのしない匂いが、した。 「ね、喧嘩しないでよ、伽音と遊んでよう」

異様。彼女を表す言葉として、真っ先に浮かんだもの。

確かにそこに存在しているはずなのに、はっきりと捉え難い。目を閉じた瞬間に、顔も形も思い出せなくなるような。不気味な感触が拭えない。

彼女は長い髪を靡かせて、楽しそうに笑顔を浮かべている。私はちっとも明るい気持ちになれなかった。

「ねえ伽音と遊ぼう」

カノン、というのが女の子の名前らしかった。

もし、ここで断ればどうなる、頷けばどうなる? 生憎、感覚の不確かな、奇っ怪なモノは佇まいでわかるのだ。事故物件に住んでいるうちに、見慣れてしまったから。彼女の放つ気配は画家さんやヨミさんの類と近しく、それでいてさらに禍々しい。常識が通るとは限らない。

助けを求めるように隣のしおちゃんに視線を送る。彼女は上を向いてどうでもよさそうに欠伸をしていた。思わず「嘘でしょう」と言いそうになったけど、そんな場合じゃないから黙っておいた。 「ええとねー、伽音が気になるのはお兄さんなの!」

伽音ちゃんが元気よく右手を振り上げて、それから人差し指をシュウくんのほうに向けた。 「だって、愛されたいでしょ?」

薄く微笑む、まだあどけない口元。

それとは対照的に、シュウくんをじっと見つめる瞳の奥には、底知れない泥黎が広がっていた。 「自分のことを愛してくれるなら、本当は茉莉ちゃんじゃなくても、誰でもよかったんでしょ?」

深層心理。心に根付いた願望。 「あなたのためだよって言えば、絶対に愛を返してもらえると、思ったでしょう?」

伽音ちゃんが笑いながら、シュウくんの意識にこびり付いた幻影や迷妄を抉り抜いて、真実を引きずり出していく。"茉莉ちゃん"という妄想に駆られた、ただ愛されたかっただけの人でしかない、その姿を。 「誰でもいいなら、伽音でもいいよね!」

名案、とばかりに手を叩いて瞳を輝かせる伽音ちゃん。シュウくんの手を握って、ぐい、と引き寄せた。シュウくんはどういうわけか、抵抗の素振りを見せなかった。 「えっ、ちょっと、茉莉ちゃん!」

狼狽した声音で、私の名前を呼ぶ。焦燥を浮かべている。それなのに、伽音ちゃんに手を引かれるがまま遠ざかっていく。さながら糸に繋がれたあやつり人形だった。 「こっちだよ」 「茉莉ちゃん!」

伽音ちゃんの上機嫌な声。シュウくんの責め立てる声。私はなぜか、一歩も動けなかった。しおちゃんが呑気に手を振って見送っている。ぜんぶ映画の中の出来事のようだった。

どこか乖離した心で、ぼんやりと、ふたりが消えていくまでを、ただ眺めていた。


「あーあ、連れて行かれてもうた」

しおちゃんがどうでもよさげに呟いた。伽音ちゃんの普通じゃない雰囲気なんて、気にも留めていない。

「なんやあの子、マリイさんの友達なん?」 「ううん、知らない……しおちゃんの友達だったりしない?」 「ないない。うちの数少ない知り合い、みんな地下ドルかボカロPかYouTuberやから……女子高生はいいひんね……」

数少なくても、みんな知り合い。友達はいないみたいな言い方。 「しおちゃん友達いないの?」

あ。声に出てしまっていた。もう取り消せない。

しおちゃんは具合が悪いような顔で、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。 「んー、いや、まあ」

そのまま、あーとかうーとか唸っている。 「なんか、友達、マリイさんだけやねん」

目を逸らしたまま、気まずそうに口篭っていた。

……もしかして。私はひとつの可能性に懸けそうになった。 さっき、部屋で言っていた、しおちゃんにとってたったひとり、仲のいい人というのは。

こんな考え、傲慢だろうか。

神様は、許してくださるだろうか。

私は、無意識下で、心の計り知れないところで、この人をどれほど好きなのだろうか。

無論、恋なんかじゃない。少女はときどき、だれかへの強い想いを、簡単に恋だと錯覚する。燃え上がる感情が、恋に限ったものではないのだと、わからなくなってしまうときがある。だからそれだけは違うと言いたかった。そんなに熱烈なものでも、綺麗なものでもないし。

ああ何千曲分のあなたを描く歌詞を綴れば、何万の音を紡げば、世界の終末、一体どこで、途方もないこの気持ちは、完成されるのだろう。

しおちゃんの、前髪に癖がついて不揃いに跳ねているところの、端っこまで愛おしかった。その不完全さ、さえも、ずっと見ていたくて、わざと教えなかった。単なるエゴのせいで「前髪跳ねてるよ」ってその一言さえ口にできない私は、いつまでも正しい人間になれない。

もっといい顔が欲しかった。

彼女を正視していても容受される顔が欲しかった。

整形したいだとか美人に憧れるだとか、そういうものではなく、なんというか、もっと、もっと……。 「よかったねえマリイさん、元彼はあの子が救ってくれるわ、もう心配いらへんよ」

私の懺悔、それから渇望、脳の奥まで巡らせた思考を簡単に突き刺す、しおちゃんの間延びした声。 「別れた、でいいのかなこれ……」 「ええやろ、代わりに連絡先消したろか?」

しおちゃんは見透かしているようだった。私の弱さも、意気地のなさも。

喉の奥の言葉が、時間を経て閉じ込められてしまう前に、吐き出した。彼女の大きな眼に映る私の姿は、ひどく頼りなかった。 「あ、あの、助けてくれてありがとう……」

ありがとう、突然連絡してごめんなさい、伝えておかなければいけないことはたくさんある。 「いや、ええ、そんなん、当たり前やろマリイさんやねんもん」

言葉を噛み砕くことにいつもより時間を要してしまった。当たり前だと言ってくれるなんて、そんなこと、微塵も頭になかった。

だって。この恩はどう返すべきだろうかと、今まで必死で考えていたから。厚い面の皮でのうのうと生きながらえてしまえば、嫌われると思っていたから。

しおちゃんは私の顔をじっと見て、それから、なにかに気がついたように手を鳴らした。 「あ! うち、あいつと違って感謝しろだの見返りがだの、別に言わへんから。安心してええよ。だって手は貸したいときに手を貸すし、貸したないときは貸さへんし、勝手にやってるだけやもん」

心を読まれたみたいで、急に恥ずかしくなり、俯いた。知らないうちに、顔に出ていたのかな。

この人には嘘をつけない。

勝手にやっていること。望まれたからではなく、したいこと。

私の頭を悩ませたあの問いだ。彼女には自然に、自分の解が見えているのだ。 「ほんまにあいつはあかんわ、マリイさんうちと付き合いよ」 「でもすぐかわいい女の子に浮気するじゃん」 「うーん、する。いや割り切りワンナイトならワンチャン浮気やない……かも……?」 「浮気です!」

しおちゃんはすぐに、思いつきで変なことを言う。でも、彼女にとって自分は、少なからず特別な何者かであるということ。それを認識できるのだから、どうしようもないところまでかわいくて、誇らしかった。

いつだって、私はお人好しだった。

みんなの言うことをハイハイと聞いてしまう、意思の弱い、情けない人間だ。聖女だなんてファンの人たちは呼んでくれるけれど、そんな、まさか。ただ嫌われたくないだけの、優しくすることでしか他者に許される方法を知らないだけの、愚かな利己主義者だ。

ただの、臆病者の生きるすべでしかない、偽善だった。

今日だって。

私はギリギリになるまでなにも言えなかった。優しく在ろうとして、押しに負けるだけで、空回っていた。ずっと自分の靴ばかりを見ていた。シュウくんがどんな人でもよかった。仕方がなかった。ああやって私を罵倒することでしか彼自身を守れないのなら、私はそれに応じていなければと思っていた。

それなのに、友達が「気持ち悪い」と馬鹿にされた瞬間に、心の奥底のほうから冷たくなっていくのを感じたのだ。こう応えなければ、優しくしなければと慎重に考えていたはずのことを、そのすべてを、たったの一瞬で捨ててしまったのだ。

気が付かないうちに、シュウくんが絶対に幸せになりませんようにと願ってしまっていた。普段ならば、石を投げられたって出てこない感情だった。

そして、私はそんな自分自身が、おぞましくて堪らなかった。この黒い血液にも似た穢れは、何度神に祈っても、消えない痣となって私に刻み込まれたままなのだろう。

いつもみたいに上っ面だけを整えて、曖昧な返事で本心を押し殺して、逃げることならできたはずだ。できたはずなんだ。

でも、どうしても許せなかったんだ。我慢ができなかった。私のことなら何を言われたってかまわない。指をさされたってかまわない。たしかに苦しいけれど、心は壊れそうになるけれど、私一人の問題なのだから、後からどうにだってなる。

でも、しおちゃんに対してだけは、本当に、ダメだったのだ。

それが自己中心的な考え方だなんてとうにわかっている。いかに欲深いことであるか、わかりきっている。その上で、それでも、私は他の選択肢に辿り着こうなんて、できなかった。

等しい重さの命がないことを知りながら、目を背けて、気が付かないフリをして、不届きな感情を貪った。

私は、子供かもしれない。しおちゃんのこと、なんにも言えた筋じゃない。

死ねる。そう思った。

きっと、今なら、死ねる。

音楽に救われて、音楽に傾倒して、もはや音楽になりたくて、だから大丈夫でいられた。一時的な特効薬だった。私の宗教と呼べるものが音楽になったあの日より遠く昔の、死にたかった頃の私が、まだ消えていなかった私の弱いところが、今になって再び顔を出しそうになる。

いいや、それとも、見ないフリをしていただけで、最初から大丈夫だなんて瞞しだったのかな。

抉られて痛くないところなんてない。それでも、急所を抉られて致命傷を負うよりは、ただの痛みで済む場所が傷ついたほうが断然マシだって、思い込んで笑っていた。

本心はいつでも、痛みを得ることを、怖がっているのに。

だから私は馬鹿で、救いようのないお人好しだった。

息が詰まる。顔が歪んで、涙が零れた。悲しくはないのに、堰を切ったように止まらなかった。

その理由は、シュウくんがいなくなったからでも、ひどいことを言われたからでも、絶対にない。ならば、どうして。 「泣きなやあ、マリイさん、大丈夫やから」

滲む視界で、しおちゃんが笑っていた。柔らかい声だった。 「大丈夫、だなんて」

言ってくれた人は、いなかった。自分で自分に言ってあげることも、できた試しがなかった。 「大丈夫やから」

大丈夫、大丈夫。囁いて、何度も繰り返される。しおちゃんの細くて小さな手が、私の肩を抱いた。背の低い彼女の頭が、涙の伝った頬に当たる。 「こんなええ人が、なんで泣かなあかんの」

そう気に掛けてくれることが、彼女の最上級の優しさなのだと、私にはわかる。

そして同時に、私は彼女の、特定の人間にしか見せることの無いであろうそういった部分を、知らず識らずのうちに利用してはいないかと、どこか不安になってしまうのだ。


汐留ゆりは、その名前を背負っていなくとも、美しかった。

いつの日か、彼女が選んで愛するのはどんな人なんだろう。あまりに綺麗に、恐ろしく整った輪郭を見つめながら、考えた。

生涯決して、異性に触れられることはないであろうその頬、その身体。今日ばかりは、自分が女であることを強く感謝した。

自分の目尻のアイラインが涙で滲んでいるのなんて、鏡を見なくてもわかる。ああ本当に、もっと。 (……あなたの隣を堂々と選べる顔が、欲しかったな)

それは絶対に声にはならない、私の罪だ。口に出すことの浅はかさは、意味は、理解している。

空白の埋まらない、この身体。 “マリイさんが誰になにを求めてるか、自分でわかる? ”

しおちゃんの質問に、ようやく、今なら、答えられるような気がした。 「めるがさあ、アフター捕まったらしい。やっぱり帰るの夜中になるかもって、今日」

まだ夏には満たない熱気が、暮れの空に溶けていく。風の吹く音、そばを走る車の音、なにもかもが温かい丸みを帯びて聴こえた。 「見てこれ、ウケた」 こちらに傾けられたスマホ。LINEの大きなフキダシ。 『ゆりちゃんに会えないマジで無理無理無理無理無理無理無理~! でも誘われたら行かなきゃめるはアイドルだもんんんん(泣)帰ってくるまでゼッタイ起きててよね!』

ゴシック体の圧。強すぎる文面。ところどころに絵文字がキラキラ。めるさん、私にとってはミステリアスで不思議な存在。

この世界でだれかがしおちゃんを好きでいること、大切に思っていること、それだけで慈しみのような気持ちが生まれてしまう。そんな心緒が、滑稽で烏滸がましいことだとしても。


ああ全人類に平等な聖女様とは、一体誰のことだろう。すべての人に祈りを、などと歌っていながら、私の愛はこんなにも低俗だ。百人を見捨てて一人を助けることが、今の私にはできてしまう

そのくせ表舞台では平然と、ファンの人から求められる通りに清い女の面をしてしまう。


……神様、もし見ていらっしゃるのでしたら、私の罪悪を裁くのはもうすこしだけ待ってください。今はまだこの温度に、浸からせていてください。そのあとでなら、どんなに……とこしえに続く奈落へ迷うことになったって、かまいませんから。どんな罰だって甘んじてお受けしますから。 「嫁が帰ってこないとわかれば堂々と浮気しましょうねえ」

しおちゃんの巫山戯た口調。なにそれ、って、つい笑ってしまった。 「ラーメン食べに行こうや、今日のユリ子ちゃんは優しいんで奢ってあげます」 「そんな、いいっていいって、年下に奢ってもらうとか厚かましいでしょ」

どちらからともなく手を繋いでいた。しおちゃんの、体温の低い小さな手が、ここで消えてしまわないように握りしめた。

夜の匂いが、近づいてくる。


 

canon:(倫理、芸術における)規範、基準、真作品

Comments


bottom of page