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第4話 臨死のピュアネス

「ねえー、これマジだと思う?」 「……」 「黒服で……心臓を失くした……胸に穴の空いた絵描きだってさ。ねえ、ゆりちゃんこういうの好きでしょ」 「…………」 「ゆりちゃーん」 「……今忙しいからあとにして」

カチカチ。カチ。マウスのクリック音だけが不規則に響いている。 「ね、何してるの?」

ゆりちゃんはパソコンの方を向いたまま。私が何を言っても振り返ってはくれない。私はその背に、手を伸ばしかけて、やめて、を繰り返す。この短時間で見つめすぎてそろそろ飽きてきた彼女の後ろ姿を、仕方なく、もう一度ゆっくりと視線でなぞる。刈り上げて顕になっているうなじから、すっと広がる細くて白い首筋。薄い黒子が縦に二つ。洗濯しすぎて襟ぐりがヨレヨレになった黒いTシャツ。布の皺に混ざって浮き上がる、骨ばった猫背気味の曲線。 「ねーえ!」 「……何って、めるのソロパートから音声合成して、機械のめるに超高速パート歌わせようとしてる。この子めるより優秀かも」

ヘッドホンすら外しもしないで、ひっどい答えが返ってくる。 「ええ!? 私で遊ばないでよー!」

カチカチカチカチ。カチ。私の抗議に対するコメントは、ピアノロールを弄る音で済まされた。

ゆりちゃん。汐留ゆり。どこかおかしい、それでもかわいい、天才奇才の同居人。彼女より鋭く尖った音楽性を持つ人間と、私は出会ったことがない。

彼女は元々、『カイ』って名前で男性と偽って、趣味で音楽を発表していた。もちろん顔も声も出さないし、私生活も謎だらけ。そのミステリアスさが、非日常を求めている退屈なインターネット戦士たちには最高なんだよね。

ネット上で数多の狂信者を抱えて、女の子たちに死ぬほど告白されて、そのうちの何人か……有名どころとか、には甘い態度で応えてちゃっかり売名に利用したりもして……それから、ファースト・アルバムをみんなが待ち望んでいるっていうときに……引退した。突然。 『僕、この辺で神になりたいのでもう辞めます』

明朝体で放たれた、最期の言葉。そんなふざけた理由、見たことある? 『人はいつか死ぬんですよ。Goodbye,Have a beautiful after life!』

これっきり、彼はなにも言わなくなった。 “ またね、美しい来世を。”

その意味はわからない。

ネットは騒然。あちこちでお気持ちポエム乱立。

嘘か本当かわからない「ずっと好きでした」だの「救われていました」だのなんだの。ファンでもなんでもない、ただ流れてきた曲にいいねしていただけの人たちに限って、第一人者の面をしている。

呆気ないくらいお望み通り、『カイ』は伝説として語られ始めたのだ。嚆矢濫觴。本気になれないまま去っていった『カイ』の跡を、みんなそれぞれ好きな偶像に押し付けたりして。

いや次世代に期待なんて無理でしょあの音楽はオンリーワンだもん。あまりにも世界がカイの、ゆりちゃんの思うがまますぎて笑っちゃうな。

まずはツイッターのアカウント、次に音楽系ブログ、それからニコニコ動画とYouTubeのアカウントが消えて、それでもう『カイ』はお終い。残っているのは無断転載されたままになっている、どこの誰が発信したのかもわからない、彼女の作品たち。今でも検索すれば普通に出てくるし、視聴もできる。核を失っても動き続ける『カイ』の痕跡。

本人は、そんな凡人どもの騒動に全くの無関心。消えたあとのはずなのに、何でもないって様子で、匿名で知り合った私の「アイドルになりたい」って夢を叶えてくれた。

そのとき射抜かれた、長い前髪の隙間から覗く目が鋭く美しかった。

本格的に私たちのユニット活動の予定が立ったあとは、ステージに上がれるだけの戦闘力がとりあえず欲しいって、二重幅と鼻を軽く整形していた。しっかりワンランク上の美貌になって帰ってきた最強の少女。そうして今度は、アイドルユニット『ゆりめる』の片割れ、『汐留ゆり』の大完成。

瞬く間に眩くて、くるくる変わる、目が回りそう。 「める、うちの音楽が売れに売れて、印税のおかげで働かんでええようになるまで、ちょっと人生付き合ってよ」

だそうです。

……そんなゆりちゃんと、気がついたときから二人きりで暮らしている。お互いくっつき過ぎず離れ過ぎずのいい距離感で、毎日楽しく音楽をやっています。幸せだよ。

ああ、あんまり退屈だから、YouTubeでゆりちゃんの曲でも聴くことにした。目の前に本人いるけど。

ゆりちゃんが個人名義で動画サイトに載せている作品群。その中で、古いもののほとんどは、UTAUとかVOCALOIDとかのソフトに歌わせている。最近は私とアイドルユニットを組むようになって、すっかり本人歌唱がデフォルトになったからね。なんて、懐かしいような気持ちで再生。

耳に残るイントロ、鋭く突き刺さる歌詞。目を閉じる。暗い冥い世界で聞こえる、ゆりちゃんの紡いだ音だけが正義だ。

この歌だけは消えない。高評価が何万あっても足りない。鋭めのハイハット系ドラムが、裁きを待つように鳴り続ける。脆くて強くて儚くて揺るぎない、彼女の実像を祝福しているハイファイ音楽。変拍子。ディソナンス。交錯する。最高速度でなにもかもを喰らい尽くし華やいだラストダンス。三分十四秒。

すべてを壊して、アウトロのピアノが過ぎ去って、私だけ遺して、命の音が止まる。辻斬りみたいだ。瞬く間に殺されてゆく。しばらくなんの音にもときめくことはできないってくらい、圧倒的に叩きつけられた答え。

誰が天才か教えてくれて、どうもありがとう。

脳の奥に咲いた黒い花は、舞って言葉を奪い取る。

……。…………。

放心してしまう。ああ、いやもう一回聴き直したいのに、次の動画が始まる合図のサークルはぜんぜん待ってくれない。

ほら、すぐ、知らない動画が勝手に始まっちゃう。

……あれ、YouTubeの自動再生って、設定でオフにできるんだっけ?

関連動画から選ばれたのは、ゆりちゃんの曲のカバー。歌唱は……乙女ゲームとかに出てきそうな、男の甘ったるい歌声。そこまではよかったんだけど。下の方のコメント。ぐるぐる回る、揺れる、揺れる、脳も、目の中も。

…………ナニコレ? 「な、なんで⁉」

思わず絶叫した。 「ねえええ本家超えってなにー!?」 『Meloid』といえば汐留ゆりの代表曲。そんなの、この界隈の人間なら知ってて当然でしょ?

なのに、どこの誰かも知らない二次元アイコンの歌い手が、『Meloid』を歌って投稿して、ゆりちゃんの動画をほんの少し上回るくらいの再生数を稼いでいた。コメントにも「○○くんの声最高」だの「本家より好き」だの「やっぱりMeloidといえば○○くん」だの。ねえ、ちょっと、だれがこの曲作ったと思ってんの? 「こんなのひどい!!」 「もおお、なんやのめる、うるさい」

ゆりちゃんが、私のほうを向いて、ヘッドフォンを外した。ようやく私を見てくれた。今だけが救いだ。一千万再生をも突破したこの楽曲を、世に出したその人。 「だ、だって! ゆりちゃんの原曲より、派生のカバー動画が伸びてるなんて信じらんない! 本家超えとか言っちゃうファンはマジでありえなくない!? 本家があるからこういう動画出せるんじゃん!! なんもわかってない!」

だから許せなかった。状況説明もままならないで、縋り付くように吐き出してしまう。ゆりちゃんは私の勢いに引き気味になって、言葉を詰まらせる。 「え……いや……うちに言われても知らんよ、どうでもいいわ……」

どうでもいいだなんて。なんで平気なの? 私はまだ食い下がる。もしかするとこんな感情は、ただ、ゆりちゃんにも私と同じように許せないと、思ってほしいだけなのかもしれない。怒りなんて単なるエゴかもしれない。 「ええ、ムカつかないの!? 私は嫌! イケメンのイラストで閲覧数伸ばしてずーるーいー!」 「そお? だって、自分の作品やろが、自分の手を離れたらもう興味あらへんし。勝手に使って頂戴、楽曲独り歩き上等よ」 「かっこいいこと言ってもダメ!!」

あああどうしようもない!この人は!!

それだけに、愛おしかった。知らない歌い手のことは忘れるためにブロックした。この世界はゆりちゃんと私だけの、安全浄土にしていたいから。


無頓着とも呼べる、ゆりちゃんの孤高の強さは危うい。

底を掴めない、生にも死にも傾くそれは、ときに私が困ってしまう。 「ゆりちゃん、また神になりたいとか変なこと言って、いなくなったりしそうで寂しいよ」 「ありがちではある」

私はつい、零してしまう。ゆりちゃんは適当な返事をする。それからすこし考え込むような動作をして……ようやく私の目を見てくれる。 「……でも、うちは今、めるが歌うために曲作ってるし。めるがアイドルをやり続ける限り、うちも道連れよ」 「道連れって! 他に言い方あるでしょ!」

表面だけでは抗議して、けど嬉しかった。ゆりちゃんと一緒にいる。ゆりちゃんと一緒にいられる。アイドルで、音楽で、絶対に繋がっていられる。 「早う売れに売れて、投げ銭と印税で生活できるようにならな、さっさと音楽も辞められへん、こんな世界もう」

ゆりちゃんは退屈そうに、長い前髪を指の先で引っ張っている。 「某社長のお金配りキャンペーン、毎日応募してんのに当たらへんねんもん……音楽で一発当てる方がまだ難易度低そう……」

呆れるくらいひっどい発言。家の中でも外でも、同業者にもファンの人にも、ゆりちゃんはいつもこの調子だ。いつだって、音楽を辞めたいときに辞めたいって言うし、「明日は朝十時から曲作りをする」と言った翌日の、昼一時に起きてゲームの電源を入れる。そういう人だ、この人は。

でも、多分、だれよりも天才なんだ。

アイドルになるのが夢だった。とは言ってもAKBとか乃木坂とかモー娘。とか、テレビで見るような、オーディションを受けて正当な手順を踏んで事務所と契約したりしてなるものではなくて。

どちらかというとアングラで、セルフプロデュースとかで、なにもかもを自分の努力だけで磨き上げて、ちょっとだけでも成功するのが。だからアイドルモチーフのコンセプトカフェで二年、バイトを続けていた。私がアイドル『めるる』になったのはそれがはじまり。毎日たくさんの男の人と握手して、私の振りまく私じゃない部分にお金が投げられたりする。

それはとっても気持ち悪いことだったし、誇らしいことでもあった。


なんでアイドルになりたいって、言ったらきっと不純だねってばかにされるかもしれないから、誰にも私の心のうちは言っていない。バイトで仲良くなった子も、結局は人間なんてどれだけ慰めあったところでやっぱり信用できないしね。

ただ、見返したかった。ステージの上で誰よりも強い光を浴びて、キラキラに輝いて、花と蝶と舞って、群衆の視線を独り占めして笑いながら「ざまあみろ」って言ってみたかった。

私を閉じ込め、魔女だと罵り、殺そうとしてくる父親に。父親の言うことを妄信的に肯定する母親に。私の家庭の話を信じてもくれなかった高校時代の教師に。こんな世界に生まれることしかできなかった、私自身に。

だからがんばっていた。汚くても、怨嗟でも、努力だけは本気だった。

私の肉体は呪いそのものだという、気がする。

百七十三センチもある、不必要なくらい高い身長。太っていても痩せていても関係なく大きなままの胸。ブリーチで脱色しすぎた薄い金髪、生まれつきの癖毛なんかも相まって、マリリン・モンローみたいでしょう。女でありながら少女。私は私の容姿をとても気に入っている。

思い切り太腿から露出させた衣装。長い脚で床材を蹴る。この身体に毒を宿して、全身で世界を呪うように、歌って踊って、きらめきの中に立つのだ。振りまく愛には、いつだって劇物が含まれている。

私はずっと、呪いを糧に生きて、呪いのためにどんどん強くなるのだと思っていた。それしかないのだとも。

そう、思っていたんだ。

汐留ゆりに出会うまで。彼女がすべてを破壊するまで。

『アイドル系の楽曲を制作しており、ユニットを組んでくださる人を探しています。興味をお持ちいただけましたらご連絡ください。私はたいして歌えませんので、歌が得意だと助かります。歌える方を選ばせていただきます』

偶然目を惹いた書き込み。毎日ワンルームの武道館で、たったひとりでアイドルの歌やダンスをコピーしていた私なら。きっと、歌える。確信があった。

だから興味半分で、コンタクトを取ってみたのだ。 『二十一歳、東京住み。アイドル系のコンカフェで働いています!』なんてね。

……。

…………。

それはたしか、三月のもうすぐ終わる頃、だった。

待ち合わせ場所にいたのは、小柄で華奢な体躯の女の子が一人。目が合うと会釈された。少し面食らってしまう。実を言うと、もっとヲタクっぽいおじさんだとか、ヤクザ系の人とか、普通じゃない男の人がいるんだろうなって思っていた。私の働いているコンセプトカフェのオーナーだって、いつもスーツで、貼り付けたような笑顔の、胡散臭い人だ。

地下アイドルだけじゃ食べていけないから、ガールズバーとかメイドカフェとかを掛け持ちしている子なんてざらにいる。そういう女の子を束ねる側の人って、みんな、どこか不透明なところがあるんだ。 「はじめまして、汐留ゆりです。……もしかしたら、カイですって言った方がわかるかも、ですけど。音楽を作っています」

長い前髪に隠れがちな、キツめの顔付き。相反する、フィクションの世界の女の子みたいな、かわいい声色。

あんなアングラな掲示板で知り合って、待っていた人は。ものすごく「らしくない」人だった。どこを取っても似合わない。そこにいるわけがない人物が、目の前に立っていた。 『カイ』。私はその名前を知っている。というか、ちょっとヲタク的な趣味を持っていて、インターネットを使う人間なら大半が知っているだろう。音楽の天才、投稿曲がYouTubeで数百万とか数千万とか再生されて当たり前の。

……でも、カイは男性のはずじゃなかった? それに、突然アカウントを消して引退してなかった? 訝しむ。有名人を騙って、相手を好きに弄ぶ手法ならいくらでもある。

でも、それでも、信じてみることができたら、面白そうだなって気持ちはたしかにあって。 「あ、もちろん本物です。なんなら触って確かめてみます?」

私の顔を見て、彼女は目を見開いた。憎たらしいほどに、大きな瞳だった。 「……阿呆みたいな証拠でよかったら、すぐ出せるんですけど」

見ます? 少し照れくさそうに、自称カイは笑った。

私は頷く。とりあえず、なんだっていいからクリアにしておきたかった。

彼女から向けられるスマホの画面。黄色い背景の、掲示板っぽい。『これカイ様ってマジ?』ゴシック体のレスに添付された、決して自称通りの男ではなく、黒髪の……目の前の彼女と同じ顔をした少女の写真。結構近距離からはっきり写ってはいるものの、目線は一切カメラの方にない。盗撮なんだろう。 「撮られてたみたいで。見ての通り写真はうちですね……ここに載ってるってことはまあ、そういう話で」

よく見ると、画面上に踊るのは『カイ(Χ)様【ボカロP】』とかいうタイトル。待ってこれ、最近見てなかったけど、マジのカイスレじゃん。今こんなことになってたの? それなら彼女はやっぱり本人ってことでいいの? 「え、っと、なんでこんな写真が出回ってるんですか……?」

どういうことなの? 他スレの誤爆じゃなくて? 信じていいの? たくさんの疑問を押しのけてまで、口をついたのがこれだった。

彼女は「あー」とか言いながら困ったふうに頭を搔いている。 「ファンの女の子とか、面白そうやったから家に連れ込んでたんですけど……浮気しすぎて恨まれてたみたいですね」

え、なんて? 最後にかけて弱くなる言葉は少し、聞き取りづらかった。 「連れ込……ええ、浮気、って、もしかして、女同士で……」 「多様性の時代ですんで」

笑いながら遮られた。

私をアイドルにしてくれるかもしれないその人は、思っていたより、とんでもない人だった。 「アカウントを消したのは……これが原因?」 「いやいや、まさかあ、普通に一回、ネットで死んでみたかっただけ」

あっけらかんと笑っている。どうでもいいって感じの表情。

なんだそれ、面白いかも。こんな人、今までに見たことがない。

系列店にリフレとかもあるコンカフェで働いていて、本当にいろんな人を見てきた。夜の繁華街は魔窟だ。泥酔した狂人に何度も絡まれたし、隣のビルの非常階段で薬物が取引されているのも見かけていた。ちなみに私も売りつけられそうになった。店内では病める「ご主人様」の意味不明で夢も希望もなんもない人生相談とか延々と聞かされたり。金払いだけはいい電波おじさんが近くの店を出禁にされて転がり込んできたり。店員も店員で、バックを取るためなら頭のおかしいジジイにだって「今日もステキです~」とか平気で言うよね。そういう非現実的でヤバい現象たちがさも当然って顔で跋扈している。人間図鑑・大都会東京。そんな、ホストの宣伝トラックが公害レベルの音楽を載せて走り去ってゆく世界にさえ、彼女みたいな人はどこにもいなかった。

仮にカイではなかったって、彼女とならなんだかやれる気がした。 「面白い人ですよね、カイさん」

やれる。あなたのかわいい顔に、誓っていい。 「……つまり?」

投げられた、ためすような言葉。視線だけで返事をする。彼女はすぐに気がついて、口の端を吊り上げる。追って、また問いが紡がれる。 「一緒に今のアイドル界、ぶち壊してみません?」 「……ええ、喜んで!」

急激に気分が高揚する。勢いのまま、彼女の手を握ってしまった。骨ばっていて、冷たくて、小さな手だった。

ネットの知らない人と軽率に会ってはいけません、なんて言っていたのは誰だっけ。夏休み前の高校教師だっけ。NHKに出てる偉い人だっけ。冷静に考えて、会って間もないのに気が合うから結婚します! とか言ってた映画の中の王女さま並みに無計画じゃない? これ。

いやわかっているけれど、それ以上に、やった後悔よりやらない後悔の方が大きいかなって、思ったんだ。 「少し前までアイドル曲をボカロで自作したりしてて、そうしたらやっぱり本物のアイドルさんと楽曲、作り上げていきたくなって。音声合成ソフトもええとこは色々あるんやけど」

はっきりと、訛った。おそらく関西の、すこし柔らかめのイントネーション。 「めるるさんを見て、立ち振る舞いとか……この人になら期待していいかもって思いました」 「ええ……? 私は、べつに実績もないし、そんな」 「うちねぇ、天才が好きで。顔みたらそういうの、大体はわかるんです」

射抜かれる。焼き付いた真っ黒い双眸、もう逃げられない。

季節がただ美しいままであるうちに、前を向きたかった。

最近上京してきたらしい、ネットで天才だと崇められていた音楽家。そんな彼女から逆に「天才」だと箔をつけられた人物が、一体この世に何人いるのだろうか。

その日から私は、アイドルとして、湊音めるるになった。『湊音』って苗字は彼女が考えてくれたものだ。……苗字をもらうなんて、なんだか、ちょっと家族みたいだね。

私はそのあと一ヶ月もしないうちに、コンカフェのバイトを辞めた。

卒業式にはシャンパンをたくさん開けてもらって、最後に胡散臭いオーナーから「いつか本当の愛を見つけるんだよ」なんて、よくわからない励ましをもらった。

……。

…………。

そして、ここからしばらくの間の記憶が、綺麗に飛んでしまっている。いや、これ以前の記憶だってほとんどない。というか、なぜだかゆりちゃんに関わる記憶だけが脳内に点々と、浮島のように存在するのだ。そのほかは私が誰でなにをして生きてきてどんなものに触れてきたのか、一切を思い出せなかった。どうしてアイドルになろうとしたのか、何をきっかけにゆりちゃんにコンタクトを取ったのか、それすらもわからないまま。ただ、元コンカフェ嬢で、今はゆりちゃんの音楽のために、歌に全力を懸けている。

ついこの間、テレビでは、記憶喪失の人が身元情報を捜索する特集が組まれていた。 「あー、そういえば」

ゆりちゃんが、唐突に口を開いた。 「める、さっきなんの話してた?」 「えっ?」

彼女の音楽にまだ浸っていた心が、一気に現実に引き戻される。切り取った過去を綴じた作品群の、現在、リアル、一番強くて光るところにいるのがゆりちゃんの実像だ。

鼓動なんて簡単に持っていかれてしまう。今ここにいる、実存がいちばん美しいから。 「なにって、都市伝説の……」 「それって、うちくらいの身長で、金髪の、男か女かようわからん子?」

聞いてたんじゃん! と言いたくなる気持ちを抑えて、冷静に問い返す。 「ゆりちゃん、知ってるの?」 「……会ったことあるかもしれへんなあ」

ゆりちゃんがいつもよりすこし低い声で囁いた。私よりも頭ひとつ以上低いところにある、彼女の美しい顔を、ついつい見つめてしまう。いまひとつ感情の読めない大きな瞳。宇宙のように光を吸収する、底のない黒。 「その人って、」 「や、あんまり探さん方がええよ」

会ったら多分めるが困るから。その意味は、よくわからなかった。 「死んだ人間の絵を売ってくれる画家さんは、こちらにいらっしゃいますか?」

こんなアトリエを訪れる客人なんて、大抵が碌でもない。秋のはじまりのことだった。

オーバーサイズの服から伸びている、折れそうなほど細い手足。背の低い女だった。黒髪にピンク色のメッシュが咲いた刈り上げのマッシュヘア。首からかけられた有名ブランドのヘッドフォン。黒いワンピースに黒のMAー1。その風貌は黒猫のよう。

あたしは彼女を見たことがある。少し前に知り合ったアイドル、マルメリ・マリイが、先月まで共同で音楽を作っていた相手だ。 「汐留ゆりって言います。どうぞよろしゅう」

大きな丸い双眸と、目が合った。 「ご依頼でしょうか、良ければこちらにお掛けください」

奥から、あたしの、家族でも恋人でも友達でもないのにずっと一緒にいる絵描きが顔を出した。

このアトリエの主は、相変わらず長く目を合わせていられない類の、不思議な雰囲気を取り巻いている。引き結ばれたような無表情は、どこか幼く柔らかい。

彼は色素の薄いおかっぱ頭を前に垂らして、入り口の方へ軽くお辞儀をした。汐留も会釈を返して、画家の示した椅子を引いた。ギシ、と古い木材の軋む音がする。

画家の最大の特徴は、胸の心臓の位置するあたりに抉れたような穴が空いていることだと思う。

身体の空洞から見える後方の壁の模様。彼がこの世のものではないことの象徴めいていた。

汐留は、それを一切気にする様子もなく、泰然自若な態度で口を開く。 「依頼したくて相談に来たんですけど……その前にうちの話を聞いてもらってもいいでしょうか」

やや訛りの目立つイントネーションは、彼女の纏う鋭さを、いくらか和らげている気がする。 「ええ、きっとあなたに必要なことでしょうから」

画家は、穏やかに目を閉じて答えた。透き通った静けさが、この極彩色のアトリエ全体に漂っていく。 「変な、夢を見たんです」

やや見た目とはちぐはぐな、高くてかわいい声で、彼女は語り出した。 「一面が燃えていました。うちはその場にいてなくて、映画でも見てるような夢でした。突然『殺してやる』って男の人の声がして……そこで、うちのよく知ってる女の子が出てきたんです。うちには一年半くらい、一緒にアイドルをやってる相方がいてるんですけど、その子。湊音めるるって名前で。彼女が『やれるものならやってみろよ』って、いつもの感じからは想像できひん乱暴な怒鳴り方をして、笑うんです。それから『ゆりちゃん、また一人にしてごめんね』って、うちの名前を呼んで、自分の首を包丁かなんかで突き刺して、倒れて……」

汐留は画家の琥珀色の瞳を見つめながら、言葉を続けた。 「あとは夢やからか途中で意識がめちゃくちゃになってしもて、よう覚えてないんですけど。起きたとき、なんとなく、でも確信に近い感覚で、めるは死んだんやなあって思いました」

あたしは画家の隣で、じっと黙っていた。画家は穏やかに、次の言葉を、ただ待っている。 「偶然かもしれませんけど……めるの訃報を聞いたんも、その日でした」

ほんの一瞬、窓の塞がれたこの室内に、風もないのに死の匂いが漂ってきた。上の階の足音が、鈍く響いている。 「死因、自殺でしたね。自分で喉切ったって、夢の通りに」

冷たく映るほど真っ白い肌。その横顔。知らない誰かの命の終わりが、彼女の口から機械的に綴られてゆく。 「何となくなんですけど、めるはまだ……戦ってるような気がするんです。きっと人ならざるあなたのその手で描いていただけたら、きっと……」

うちの願いは叶うはずなんです。口の動きだけでそう言ったようにも、気のせいだったようにも思う。 「わかりました。その方の肖像をご希望なさるのですね」 「ええ。えらい前置きが長なってもうてすみません。こんな感じの子なんです、お願いできます?」

汐留が、黒いサコッシュから何かを取り出した。

無造作な手つきで机の上に掌ほどの大きさの紙を並べ始める。写真だった。そのすべての画面の中で、長い金髪をツインテールに結い上げ、フリルのドレスを身に纏った少女が微笑んでいる。彼女が「める」と呼ばれている女に違いなかった。 「勿論、お任せください」 「お代金、どのくらいなります?」

事務的に進められる遣り取り。その終わりがけ。間に口を挟んだ人物がいた。 「……それなら私が」

どこに隠れていたのか、さっきまでいなかったはずの和服の女。この場で初めて声を出した。ツヅという名前の、狂信的な画家のパトロンだ。こいつはいつもそうだった。 「変わり者と、思うかしら。わたくしはこの子の芸術のすべてを愛しているの。だから私がお支払いします。たとえ自分の手元に渡らない作品だとしても、それだけで満足できるから」 「物好きな人でしょう、そういうわけですから」

画家は慣れきって、用意されていた解で纏めてしまう。

汐留は驚くほど、こちらについてなにも聞いてこない。それならそれで、とでも言うように頷いた。 「この女の子のこと、大切なのね」

ツヅが艶やかに笑いかける。しかし、空気を酔わせるほどに美しいこの女の動作にも、汐留はいたって平然としていた。 「ああ、聴いてはったんです?」

彼女は、ツヅに負けず劣らず、これまで他者を狂わせてきたであろう美しいかんばせを上げて、答える。 「めるは、うちのアイドルや。誰にも……死にさえも、奪わせるわけにはいかへんからね」

言葉の終わりのほう。やや長めの前髪の下の、大きな瞳が揺れる。彼女は終始冷淡な態度でいるはずなのに、今だけはなぜか泣いているようにも見えた。 「……では、お願いします」

話し終えると、汐留はさっさと椅子から立ち上がる。硬そうな厚い靴底が床を鳴らした。 「来週末には仕上がりますので、またお越しください」

返す画家の言葉も、無駄がなく簡素だった。それでも、いつも、どこか声に温かみがあるから、あたしは好きだった。 「お世話になります」

汐留が最後に頭を下げて、アトリエを出ていく。

ガチャン。遅れて響く、やや乱暴に扉の閉まる音。

あとに残されていたのは、夢物語めいたかわいい衣装で笑う、少女の写真のみ。 「……ああいう子でも、こんな都市伝説にわざわざ関わるほど、大切な人がいるのね……」

あたしは彼女のすべてを知らない。マルメリ・マリイの音楽越しに光る、彼女が世界に発信することを良しとしている『汐留ゆり』の断片しか見たことがない。それでも、彼女がここに辿り着いたこと、少女の写真を持ってきたこと、そのすべてが想像を越えていた。

夢と現実。生きてゆくこと、死んでゆくこと。

画家が油絵の具の蓋を開ける。立ち込める独特の匂いに、意識が引き摺られて、惑う。

倫理はどこまで適うだろう。

脳裏で揺らめく、縄の代わりで輪になった青いストール。もしもあのとき死ねずに落ちていたら、あたしは無様に愁眉を開いていたのかしら。ああ、こんな世界で死に損なわなくてよかった。この身を捨てたことのある人間にしか、わからない言葉だってあるのよ。道徳だの正義だのと名付けられた美徳をまとめて死の季節に焼べた。  [現在] 「やっぱりねえ、今のあんた、あまり人間は描かない方がいいのかもよ」 「どういうことでしょうか」 「ほら、あんたもばけものだからね、描いたらどうもバグるのよ。あたしとか……ちょっと前に描いたアイドルちゃんみたいに」 「ヨミさんはともかく……湊音さんがどうかしましたか?」 「だって一度死んだ人間が蘇るなんてねえ。あたしは自分が死んだことをわかってるけど、あの子はちゃんとわかってないかもしれないわ、自分が生きているつもりになっているかも……」 「……そうでしょうか」 「絵の依頼者、相方の子が隠そうというんだから……尚更ね」 「……ヨミさん、僕らが思っているよりずっと、“ 嘘は強い〟ことだって、あるのです」 「もしかして何か勘づいてるってワケ?」 「特に、そこまでは。……どうなろうとも、僕は、依頼されたものを依頼されたように、描き続けるだけですから。失くした心臓と名前が見つかるまで」 「まあ、ご立派。あたしは好きよ」

ゆりちゃんは鉄壁の引きこもりだ。パソコンさえあれば本業の作曲とついでの生配信で食べていけるし、趣味のゲームだってできる。友達もたいしていない。ほとんど家から出なくても生存できる性質なんだよね。

でも、私はそうもいかないので、ご飯食べに行こうよって、無理やり引っ張り出すに近い形で誘った。

一緒に住んでいながら、二人で同じ外の世界を見るのは久しぶりだった。 「いや、この気温、正気やないやろ」

空調の効いたマンションのロビーを出ると、途端に夏は始まっているんだなあと実感させられる。

ゆりちゃんは暑い暑いと文句を言いながらも、ちゃんとついてきてくれた。人前で素肌を晒しすぎると死ぬとか意味不明なことを言って、七月の空の下に長袖なんか着てくるのはどうかと思うけど。

でもまあたしかに、塗ったばかりのデオドラントが瞬間で溶けてしまいそうなほどの暑さ。内臓も脳もそのうちダメになるかも。なかなか日の落ちない夕方。ひぐらしの声が、初夏の空気を漂っていた。

ゆりちゃんは鬱陶しそうに目を細めて、汗で張り付いた前髪を乱暴にかきあげた。顕になる白くてきれいな額。つい、触りたいなあと指先がざわついてしまう。ゆりちゃんの髪も顔も身体も、本当に、なにもかもがきれいだった。私なんかは前髪がないとやってけないから、どれほど暑い日でも風の強い日でも前髪絶対死守を第一に置いている。こんなにも、自然体が一番かわいい彼女を、羨ましいと愛おしいと誇らしいと、隣にいられてよかったと、思う。

あなたのことを、すべての脅威からこの身を呈してでも守りたいと、最果てまで美しく、あなたを永遠の存在にするためなら私はなんだってできるのだと、そんなばかでロマンチックなことを口にしたら、また笑われちゃうかもしれないや。

浸る。呼吸するたびに肺を圧迫するような夏の温度。どんな季節だっていい。どんな世界だっていい。私が何者だとしてもかまわない。ゆりちゃんの真っ黒な瞳に、私の姿が映る限りは。 「ねえ、ゆりちゃん……」 「あー! リリーちゃん、ひっさしぶりだねー!」

突然、真後ろで声がした。私の声を、心を、遮って、掻き消してまで。 「なんやろ、あんた、どっかで見たっけなぁ」

ゆりちゃんは私じゃないほうに、すぐにに応じた。わざとらしくとぼけた態度。口の端っこが僅かに吊り上がっている。知り合いだろうか。 「もう! 先週会ったでしょ! 伽音だよ伽音!」

どこの学校かな、彼女が纏っている、見たことないデザインのセーラー服。お団子にまとめた栗色の髪。チープなプラスチックのヘアピン。女子高生、ってだけで、どんなアイテムも特別な香りを放つことを、私は思い知る。 「ああ、カレンちゃんか、そらどうも」 「かーのーん!!」

キーンと脳に響く、不愉快な高い声。ゆりちゃんの声質も普通じゃあまり聴かないレベルには高めだけど、彼女のはまた違う。もっと張り上げたような、背骨から出すような声だ。

ゆりちゃんに馴れ馴れしく笑いかけている。ゆりちゃんも普通に返事をしている。え、なに? 邪魔なんだけど。……そう言いたいのを、喉元まで出かかった感情を、グッと押し殺した。

でもこんなの、ありえなくない? せっかくのゆりちゃんとの最高の時間に、知らない女が割って入ってくるなんて!

私は彼女の、喉のあたりを睨んでいた。いつか刺し殺すなら、きっとここだ。そう、本能が示している。 「あら、伽音のお友達ですか?」

そして。後ろに、もう一人の知らない女がいたことに、声をかけられるまで気が付かなかった。

こちらは足の長い、すらりとした大人の女だった。怪我でもしたのか、左目に白いガーゼの眼帯をしている。きりりと吊り上がった眉、気の強そうな瞳。ゆりちゃんに負けていないくらい、何を考えているか読み難い乏しい表情。やや圧力のある美しさ。 「うん、そうだよ!」

伽音だとか名乗っていた、彼女がにっこりと笑って答える。女は「そう」と一瞬だけ驚いたような顔をして、すぐに元の無表情に戻った。

二人がどういった関係であるかなんて、どうでもよかった。 「そういえばね」

伽音ちゃんは前置きも何もなく、話し始める。ゆりちゃんとの距離をグッと詰めて。入ってくるなよ、と、私が視線で呪っても無駄だ。 「リリーちゃんは、神になりたくて自分を……前の自分を殺したんじゃないよね」

ゆりちゃんの頬が、ほんの僅かに引き攣れたのを見た。 「いきなり来たと思えば、古参ファンアピールかなんかか?」

彼女は前名義を出されることを過剰に嫌っている。ネット上では『カイ』について、何を問われようと知らぬ存ぜぬで通しているくらいだ。 『神になりたいのでもう辞めます』……あの言葉。

あまりにも有名な、カイの最期の言葉。

この子はどうして、どこまで、知っているのかな。

仮に、すべてを見透かしてる……とか言ったところで、結局は表面だけでしょ。あなたになにがわかるの、噛みつきそうになるけれど、まだ生きている冷たい血流を意識して、なんとか抑え込む。

大丈夫。

私はじっと、息をしないで、できるだけ存在ごとを殺していた。 「愛されたかったんだ、だから仮想世界で自殺した」

伽音ちゃんが笑う。肌がひりひりと痛んだ。 「……そうかもしれへんなぁ」

ゆりちゃんも笑う。季節がひとつ丸ごとなくなっちゃいそうな冥い永遠。それでいて一瞬。 「そして、あなたは今、自分の願望や妄想を湊音めるるちゃんっていう女の子に着せ続けることで……自分を殺さずに済んでいるんだ」

なにもかもわかったぶった、伽音ちゃんの口調が気味悪かった。 「ゆりちゃんはそんなんじゃ……」 「ああそう? 好きに言うてたらええよ」

我慢ならなくなった私が口を挟もうとしても、すぐにゆりちゃんに遮られた。彼女は面倒くさがりで、いつもそうだ。私が真実を、ゆりちゃんの正当性をたくさん知っていても、本人が弁明を嫌うせいで、ぜんぶ無駄になってしまう。それはとっても、勿体なくて、哀しいことだった。

もっと、ゆりちゃんを守る言葉を、刃を、持てたら良かったのに。私はまだまだ、無力だった。

眼帯女は、何も言わずに、ずっと同じ調子で伽音ちゃんの隣に立っている。

ばかみたいだ。切り裂きたい。心臓が、熱くなった血を全身に押し出す。赤い赤い、燃え滾る憎しみ。私の自我の奥のほうが、その激流に潰されて、次々と死んでゆく。 「次の一手を選んだときには、この瞬間なんてもう過去のことなんだよ」

あははっ! 高い声で、何がおかしいのか、伽音ちゃんは笑っている。見開かれた大きな眼。瞳の美しいのならゆりちゃんだってちっとも負けていないけれど、伽音ちゃんのそれはもっと、零れ落ちる椿のように華やかで、もっと邪悪だった。 「なにが言いたいか知らへんけど」

夕方。祈りさえ届かないほど悲しい、夏の水色のはじまり。 「別にね、どう思てくれても構わへんよ。最後に勝つのんはうちや」

ゆりちゃんは動じない。伽音ちゃんのこと、彼女がどう思ってるのか、想像することは、だれにも許されていない気がした。

私はゆりちゃんの、首筋だけを、見ていた。こんな身体で死にたいと叫んだってなんの効力も示さない、私はもう、どこへも行けない。

私たちはもう、どこへも。

どこへも…………。

風が凪いだ。遠くから、選挙カーの演説が聴こえてくる。みんな、ふつうに、生活している。他人の生きざまなんて、苦しみなんて、知らないんだ。

なんか、やんなっちゃう……。

突然、伽音ちゃんがわあっと声をあげた。 「あー! やばい、鵙屋! 帰ろう!」

家に忘れ物をしたのを思い出したときとか、そんな感じの言い方だった。甘やかすのに相応しいって誰もが思いそうな、声の色を、している。

声量も動作もオーバーに、感情をくるくると回す彼女の振る舞い。

眼帯の女は、小さい子をあやすみたいに柔らかく、伽音ちゃんを見る。 「どうしたのです急に、お友達とお話している途中でしょう」 「だってえ、鵙屋が危ないんだもん」

伽音ちゃんは、自分の右の顬あたりを髪の毛ごとぎゅっと抑えている。ゆりちゃんも、眼帯の女も、私でさえも、伽音ちゃんをみていた。 「えーっとなんだっけ、鵙屋のことを勝手にナントカって言ってた男の人いたじゃーん、ええと」

全く脈絡のないことを言い出した彼女は、大袈裟に考え込むような仕草をしたのち、ポン! と手を叩いた。 「……フィナンシェだ!」 「フィアンセです」 「そーれーだー!」

いたって事務的に訂正を入れる眼帯の……鵙屋というらしい女と、いちいちオーバーリアクションで示してみせる伽音ちゃん。あまりに対照的だった。 「そいつねえ、もうすぐここに来るよ、伽音には見えるよ」

だから帰ろう、伽音ちゃんがデンパみたいなことを囁きながら、鵙屋の腕を引っ張る。

この眼帯女、ストーカーとか妄想癖の変態にでも悩まされてるわけ?

まあ確かに、それが有り得そうなレベルには美形だと思う。

ゆりちゃんには絶対及ばないけどね。絶対! 「と、ゆーわけだから! 鵙屋を守ってあげるために、伽音たち急いで帰らないと! バイバイ、リリーちゃん!」

最後までわけのわからないことを騒ぐだけ騒いだら、一方的に別れを告げられた。しかも私のことは見えてないみたいに、ゆりちゃんにだけ手を振って。私は幽霊かよ。本当になんなの、こいつ。

でも、これは簡単に恨みって呼べるほど、優しい感情ではなかった。 「ハイハイ、またねぇ。……また会えたらええけど」

ゆりちゃんは呑気に手を振っている。伽音ちゃんが高く上げた両手を振り回すようにしてそれに応える。

いや、ゆりちゃんとの話、消化不良すぎない? ここで消えてもらっちゃ困るんだけど。えっ困るの私だけ? なんで?

取り残される気配がする。誰も彼もが特別なくせに、自分を平凡だと思って、勝手に話をすすめていく。ううん、もしかすると、平凡かどうかさえ考えたことだってないんだろう。 「では失礼します。良ければ、これからも伽音と仲良くしてあげてくださいね。彼女、私の勤め先に遊びに来てしまうほど、友達がおりませんので」

事務的な口調で、鵙屋が言った。 「ああ、申し遅れました。私は鵙屋と申します。伽音の友達です、以後お見知りおきを」

嘘くさいほどに優雅な動作で一礼される。

バーカ! あんたたちなんか嫌い! 死んでも覚えてやんないわ! そう思ったけれど、私は偉いので、きちんとお辞儀をしてからお別れをした。

外気はまだじわじわと暑いはずなのに、心は凍りついていた。夏なんか嫌いだった。

これから始まる季節、その予感に、温度に、中指を立てる。  …………。  ………………。  ……………………。  世界がごうごうと燃えていた。立ち込める煙の匂い。足を引きずって、逃げようとして、けれど、どこに行けばいいのかもわからない。  背後で男の喚く声がした。 「殺してやる! お前なんか殺してやる!」  それは、不快な炎の音にもよく似ていた。 「この魔女め、神に逆らう呪いの女め、殺してやる!」  浅ましい言葉たちが、この身体をめがけて尖っている。  私は笑いながら、振り返った。何も怖くなどなかった。  殺す? ああそう。その前に、あんたは自分がどれだけ価値のない人間か、理解した方がいいと思うけど。 「やれるもんならやってみろよ」  喉の奥から出てきたのは、自分でもゾッとするくらい、低くおぞましい声と、口汚い言葉だった。  火の手が、私の答えを拒絶するみたいに迫ってくる。  こんな男に殺されるのは耐えられない。それなら自ら命を絶った方がずっとずっとマシだというもの。この世にはひとつだけ、未練があったけれど。 「ゆりちゃん」  この地獄で口にするには美しすぎる名前。  たった一人の、大好きな女の子を呼んでしまう。 「また一人にしてごめんね」  それは、懺悔だった。後悔だった。あなたにたくさんのものを貰って、それなのに、私はなんて身勝手なんだろう。  あなたがいなければ、もっと楽に死ねたのかな。それは幸せなことだろうか。それでも、あなたがいなければ、私の人生は最低でボロボロのままだったから。 「ゆりちゃん…………」  私は手にしていた果物ナイフで、自身の喉を一直線に突き刺した。もう迷いはなかった。  …………。  ………………。  ものすごく、変な夢を見た。  時計の針は深夜三時半を指している。隣の、ゆりちゃんの部屋からは、微かに、タンタンタン……となにかを叩くような音が不規則に聴こえてくる。  全身に纏わりついた嫌な汗が気持ち悪い。  内臓がぎゅっと押さえ付けられているみたいに、苦しかった。  夢占い、自殺、検索。  自殺とは自分を殺すこと、つまり今の自分を捨てて新しい自分へ生まれ変わることを意味しています! あなたの変身願望や、現状を変えたい気持ちが意識の中に強く存在するのかもしれません! 「ぜ~ったい嘘だあ」  変わりたいことなんてなんにもないし、今がいちばん幸せだし。ゆりちゃんが誰よりもそばにいてくれるのに、悲しいことなんてある?  ……なのに、どうして、こんなに不安なのだろう。  夢なんて情報整理のために脳が活動してるだけでしょ? 情報と記憶の組み合わせが思い通りにはいかないせいで、意味不明な映像になってしまうだけでしょ?  世の中、ドラマでもニュースでも、テレビの世界には自殺なんてたくさん、あるじゃん。どこかで見聞きしたなにかを、意識が自分のものだと取り違えちゃっただけだってば。  私はあんなもの知らない。私はあんなこと思わない。  いくら自分に言い聞かせても、上手くいかない。もう一度目を閉じるのが怖かった。起き上がって、電気を付ける。突然明るくなった世界が、目に痛いほど眩しくて、すこし安心した。  ゆりちゃん、あなたを一人にはしない。いや、一人にしてはいけないのだと、私の知らないメモリーがざわめいた。  私は、記憶を失くす前の私は……どこで、なにを、見たんだろう。  隣の部屋。こんな時間、ゆりちゃんはいるに決まっている。物音だってする。それでも、どうしても、この目でその存在を見なければいけない気がした。 「ねえ、ゆりちゃん、起きてる?」  ノックは忘れた。声だけかけて、恐る恐るドアを開ける。  いた、黒い椅子に腰掛けた背中が見えた。私の閉じた世界にようやく陽が射した。私の足元が、ようやく確かなものになる。  薄く聴こえるカタカタ音の正体。彼女はずっと、キーボードを弾いていた。ヘッドフォンをしているから、奏でられているはずの音は私に届かない。カタカタ、鍵盤をはじく音だけがすべてになる、真夜中、無音の芸術。その後ろ姿が美しくて、これ以上の言葉をかけることを躊躇った。 「え、なに? おはよう」  振り返ったゆりちゃんが一瞬、大きな目を見開いた。無造作にヘッドフォンを外して、私の顔をじっと眺めてくる。  夜は、数多の気配が透き通る。あなたに話したいことなら、いくらでもあるはずなのに。なんにも声にならない。ただ、彼女の機械的に整った輪郭を、漂う空気に溶けるディテールを、視線でなぞるだけだ。  ゆりちゃんの部屋はいつ見ても、パソコンを付けっぱなしにしている。デスクトップモニターの端っこに流れる、内閣がどうとかいう政治のニュース。この黒くて狭いテトラゴンの中が、きっと世界の終末みたいだ。 「ゆりちゃん」  それならそれでよかったし、それがよかった。  アイドルになれて、誰よりも強く歌って踊れて、身寄りも記憶もろくにない私と家族みたいに暮らしてくれる大好きな人がいて。それでもまだ、周りのみんながうらやましい。ゆりちゃんと接触するだれかが、いつもうらやましい。  特別になるってことは、思い知ることだ。凡人とは違うところにいるくせに、まだ使いこなせていない魔法、まだ手の届かないものが、たくさんある現実を。 「ゆりちゃん……伽音ちゃんって、ゆりちゃんの友達なの」  本当はそんなことを訊くために部屋まで来たわけじゃないのに。私には、上手く扱えない言葉が多すぎる。とりあえずで口にした言葉に、いつも後悔させられている。これじゃあ嫉妬も隠せないダメな女みたいだ。それは、ちょっと、なりたい私じゃなさすぎて嫌だな。  ゆりちゃんは、なんてこともなさげに「あんなん友達やないよ」と頭を振る。 「気づいてるかもしれへんけど、あいつ、バケモンやし」  そうだね。私は緩く笑った。伽音ちゃんが纏っていた不思議な気配。しっかりと存在しているはずなのに拭えなかった、謎の浮遊感。それらの正体が人ならざるもの特有の匂いであるのだと言われれば、引っかかりなく頷けた。 「……じゃあ、鵙屋さんは?」  感覚でなんとなく、わかるけれど。問うてみた。 「誰やっけ」 「伽音ちゃんの後ろにいた、眼帯の人!」  ゆりちゃんはすぐ人の名前を忘れる。でも私が代わりに全部おぼえているから、大丈夫だよ。ゆりちゃんの大きな目が、すこしだけ縦に開いた。 「あっちは初対面、でも人間やね」  なーんで人間がバケモンと一緒にいてはるんやろねー、ゆりちゃんが歌うように間延びした声で言う。その声音に、心臓の端っこがチクッとした。私は俯く。 「かののんがどうかした? まさか、あいつの言うてたことが気になる?」  ならない、といえば、嘘になる。  でも、本当のことを言う気にもなれなくて、口を噤んだ。  ……私は、ゆりちゃんを、守りたいだけなんだ。  へんな接触をしてくる伽音ちゃんからも。他のたくさんの人間からも。致死量の孤独からも、身を抉る言葉からも、眠れない夜からも。あらゆる痛みから、ただ守りたいんだ。  そのために使えるものはなんだって使うし、どんな間違いでも正しいと呼べる。私はアイドルだけど、いや、ゆりちゃんのアイドルだから……それくらい、やれる。  ステージで舞って、ゆりちゃんの曲を歌えていれば、それ以外の場所では悪者でかまわなかった。 

欺瞞かもしれない。不純かもしれない。ゆりちゃんを脅かすなにもかもを壊せるのなら、代わりに私が堕ちたっていい。  胸の中、内臓とか、ぐちゃぐちゃにされたみたいに、重たいものが込み上げてくる。  アイドルユニットゆりめるの白担当、その肩書きはちょっとだけ、誇らしい武器だった。  そうやって生きていけるのなら……私の心は、空洞のままでも満たされている。 「める……もし、自分の存在が全部嘘やって言われたら、どう思う?」  私の抜け落ちた記憶。ゆりちゃんの静かな声が、問いかけてくる。きっと、何かを知っているのだろう。その上で言わないこと……言えないことが、あるんだ。  ゆりちゃんの綺麗な、機械的な甘美さ象るかんばせ。私の大好きな、真っ黒い瞳が伏せられている。瞬きするたび、長い睫毛が揺れる。その眼が欲しいと思った。その宝石を通して見る世界は、どんなに広大だろうか。 「ねえ、ゆりちゃん。大丈夫だよ、いいんだよ」  口をついた言葉は、なんにも答えに、なっていなかった。ストレートにものを言うゆりちゃんらしくない、回りくどい質問を、私自身、上手く受け止めきれなかった。私の存在がどうだかなんて、だって。だってさ。 「だって私、わかってるんだもん……」  わかってるよ。わかってたよ。 (でもゆりちゃん、何も知らない私が好きでしょ) (だからいいんだ、ずっとこれでいい) (このまま、二人のまま、永遠でいようよ)  ……どれも、言葉にならなかった。 「ゆりちゃん、死ぬときは私のこと、殺してからにしてね」  代わりに絞り出せたのは、こんなものだった。  大好きな人にかけるには、なんて邪悪な、酷い呪いだった。 「カイはうちが殺した。汐留ゆりを殺すのも、きっとうち」  私はゆりちゃんの喉元だけを見つめている。作りものみたいに浮き上がった鎖骨。 「……覚えててね、める。うちはいつかいなくなるよ」 「やめて、絶対に嫌だから」  思わず、ゆりちゃんの薄い肩を掴む。考えるより先に手が伸びていた。骨っぽくて硬い身体。黒いシャツの、綿の手触り。もしも、この一枚を超えられたとしても、私たちの境界までは、曖昧になってはくれない。  死にたいくらい哀しかった。  こんなに近くにいるのに。身体のどこかでも掴んでいなければ、目を離した隙に消えてしまいそうで。 「ねえ、ゆりちゃん」 「どしたん、める」 「……なんでもないよ」 「ああそう」 「ゆりちゃん」 「める?」 「本当になんでもないよ、ゆりちゃん」 「める」 「ゆりちゃん……」  名前に背負う、白百合のごとき眉目の好さ。婉美にして端麗。今すぐにでもその白い肌に、直接触れたい。いいや、安易に触れてしまって、汚したくはない。  美しく、不完全に完全で、人間然とした、あなたが好きなの。  あなたがここにいる。今、あなただけが私を見ている。ああそんな、死んでもいい、死んでもいい、すぐ死んだっていい。 「めるはずーっと、ゆりちゃんについていくよ」  この地獄の果てが、永遠に終わらない暗闇だとしても。 「だから捨ててしまわないで」  だから、ずっとそばにいて。  前の日、どうやって眠ったのかをよく思い出せない。  昼過ぎに起きてきたゆりちゃんが、ツイッターでバズっている動画を見て楽しそうに笑っている。 

青みがかった不健康的な手に支えられた、最新機種の黒いスマートフォン。透明なカバーの下に、見慣れないものが挟んであった。  スマホ裏で縮小されたゆりちゃんの隣に、私じゃない女がいた。 「ゆりちゃん、それ……プリクラ?」  本来ならそんなこと、聞きたくない、見たくもない。それでも、知らないふりで残りの人生をやり過ごせるほど、ゆりちゃんは私にとってどうでもいい存在じゃない。 「え? うん、ええやろ、マリイさんと」  手を退けて、わざわざ見せてくれる。その動作がもう辛かった。自分の掌に爪を立てる。  最新機種の、チェキくらいのサイズの写真。おかしいほどに真顔でピースしているゆりちゃんと、穏やかそうに笑う赤毛の女が写っていた。ふちどりペンで彩られた、見たことない丸い文字と、よく見知った角張った汚い字。そのふたつが画面の中に踊って、お互いの名前を象っている。仲がいいのは、一目瞭然だった。 「マリイさん」「しおちゃん」……ふーん、マリイさんとかいう女、ゆりちゃんに渾名なんかつけちゃって、生意気。  べつに、顔、そんなにかわいくないじゃん。  プリクラでキラキラのデカ目小顔に盛られてるけど、それでも、どこか芋っぽいというか……まだ洗練されきってないというか!  少なくとも、ゆりちゃんの隣に立って、華やかさで並べる人間ではなかった。服装だって特にお洒落じゃないし。  自分の肌の上、ブラのワイヤーの硬さと意識が合った。自慢のEカップバストを守ってくれるのは、超かわいいレースのランジェリー。ちなみに昨日のも超かわいかった。一昨日だって。どれも、ゆりちゃんにかわいいって思ってほしくて、選んだものです。  毎日、毎日、いちばん近くで、ゆりちゃんのタイプになるために頑張っているのは、絶対に私だ。  どうして、私じゃだめなの。脆い心臓が、なにか醜い毒のようなものを乗せて、全身に向け鼓動する。  ゆりちゃんはそんなこと、気がつかないんだろうな。それでいい。毒も欲も閉ざせ隠せ、風采に埋めろ。私だけはいい子でかわいい、ゆりちゃんの大好きな、砂糖菓子でつくられたアイドルなんだから。 「最新の機種はシールですらないんやって、そもそも普段プリクラなんか撮らへんしなにが最新かは知らへんけど」  ゆりちゃんの大きな眼が私を見ている。  ……いつもならここで、知らないのかよ! って突っ込むところなのは、わかってるけど。  身体が沸騰しそうだ。最低なときこそ、そばにいてよ。  私の世界でいちばん嫌いな人間。  ゆりちゃんにやけに馴れ馴れしく近寄る、"マリイさん"とか呼ばれているあいつ。前々から存在は認識していた。  まあ、もしかしたら記憶を失くす前には、もっと最低な奴とも知り合っていたかもしれないけれど。今、現段階で、私が誰よりも憎いのはあいつだった。  ゆりちゃんもゆりちゃんだ。あんな奴なんか相手にしなくていいのに。プリクラの話だけじゃない。一昨日だって「ギター打ち込んだから試しに聞いてほしい」とかSNSで話していた。なんで?って思う。そりゃあ、ユニットのメンバーと無関係な人からの、客観的な意見は大切だよ。でも、それにしたって、あの女はないだろう。他にもっと、音楽歴の長い知り合いとか、いるはずだろう。  あの女だけはいやだった。だってあいつは、ゆりちゃんに見たことのない顔をさせるのだ。日常生活でも、SNSの中でも、イベントのときも、ステージの上でも、どこにも、あんなにだれかと距離を詰めて接するゆりちゃんはいなかった。  ゆりちゃんを攫わないで。私から奪わないで。あいつにとってのゆりちゃんは、友達のうちの一人なんだろうけれどね。私にとっては、世界の、生きる理由の、すべてなんだから。  どんな歴史より、どんな運命より、ゆりちゃんは特別だ。  私の世界を、あんな知らない女に、辻斬りのように殺されたくはなかった。  月額九百八十円で聴き放題の音楽アプリ。今月のオススメ! とかいう見出しで、あの女のアルバムが表示されていた。「◎」とかいうタイトル。ふーん、セカンドアルバムなんだ。  ……敵を知り己を知れば百戦危うからず。  仕方がない。これは、アレよ。ただの情報収集なんだから。  大嫌いな女の作品。イヤホンを耳に突っ込んで、再生。イントロのゆるやかなメロディ。ばかにしたような気持ちで吸い込む。ああどうせ、どうせ、これも流行りの音楽をなぞっただけのナニカでしょ。  吐き出される優しいピアノ、一音ずつ響く無駄のない伴奏。いいやゆりちゃんの方が血を流すくらい鋭利な音を作れるし。心の奥のほう、誰も届かないところを抉るような歌詞。いいや、いいや、ゆりちゃんの方が美しい言葉だってたくさん知っているし。  ……どうしたって、惹き付けられる。次の一手を待つ。耳を塞ぎたくなる。マルメリ・マリイなんて名前、絶対に覚えてあげない。ツイッターのアカウントに飛ぶ。なーんだフォロワー七万二千人かあ、カイは十四万人だったもんね。倍じゃん、余裕。苦しい。こんなものに賞賛の言葉はいらない。  ぼんやり聴いていると、四曲目に達していた。これ以上はいけないと思って、できるのなら耳を取り外して洗ってしまいたくなって、再生停止を強く押した。

すぐに別の、既存のプレイリストを開く。ゆりちゃんがあらゆる名義でつくった音楽がずっとずっと続いている最高の箱。急いで再生。鋭いギターのイントロ。ハイハット強めのドラムがリズムを刻んでいく。散らばる電子音。聴覚を、記憶を、上書き。私が知っている最高の音楽。安定して、隙もない、一生聴き飽きることのないメロディ。あんな奴、忘れてしまおう。  誰も、カイの、汐留ゆりの、オリジナリティにかなうわけないんだから。  全知全能。ゆりちゃんの黒で、私の白なんて世界のピュアネスなんてぐっちゃぐちゃに引き裂いてよ。  ゆりちゃんがいなければきっともう存在していなかったこの命が、強く脈打った。

……ほんとうは。  ずっと、わかっていた。どうして記憶がたくさん欠けているのか。どうして誰も何も教えてくれないのか。どうして私には、ゆりちゃんしかいないのか。ゆりちゃんのことしか覚えていないのか。  わかっていて、目を背けていた。わかっていて、好きだった。わかっていて……私は迷わずにゆりちゃんを、汐留ゆりを、選び続けていた。  湊音めるるの中身は、もうとっくに、空っぽなんだよ。ファンの人とか、楽屋で一緒になる同業者とか、今朝のコンビニの店員さんとか、みんな私の不和に気がついてないのかな。それとも、知っていて、見て見ぬ振りで済ませているのかな。そこまではわからない。そこまで、他人に興味もない。  手の内でぐしゃぐしゃになったイヤフォンを握りしめる。  だって。だって、私は。  私は、もう人間じゃないんだもの。  この心音に、伸びる影に、意味なんてないんだもの。  人間そっくりのこの身体。息をして、心臓を鳴らして、血の通っているこの身体。全部、ぜんぶ、ゆりちゃんがエゴでつくったものだって言って、誰が信じる?  ああでも、ゆりちゃんはきっと、何も知らないままで歌う私の姿を、望んでいるから。何も悩まないで、自分のことを記憶喪失だけどあとはふつうの女の子、人間だと思い込んで生きる私を望んでいるから。そうしていれば、ずっと一緒にステージに立てるから。ゆりちゃんのためなら私はなんだってできる。どんな努力でもする。  あなたが世界を否まないのなら、私、記憶が戻らなくたっていいよ。自分のことなんてわからなくても、いいよ。  今あなたといられて、何よりも幸せだもん。 「なんやわからんけど疲れたわ、今日こそは曲作りたくない……いや、なんなら毎日曲なんか作りたないんやけども」 「次のライブ終わったらちょっと休めるから、がんばろ」  東京は夜が一番芸術っぽい。家を出てからものの三十分で疲れ始めるゆりちゃんを励まして、流れ作業のようにスマホを開いた。 「あーん、今日コメント少なくない? 自撮りこの角度だとあんま映えてないのかなあ」  半分以上独り言のつもりで嘆く。インスタのコメント欄。何度タップしても無駄無駄で、普通にそんなに伸びてない。スマホを逆さに向けたり、斜めにしたり、さっき載せたばっかりの写真を過剰に再確認。超かわいいはずの私の斜め右向きの顔が映っている正方形。もう投稿しちゃったものを粗探しして後悔しても無為でしかないってわかってるんだけど。  えーん、努力しまくったこの私のプロポーション、みんなもっとかわいいって言ってよ~! まあ、べつにゆりちゃん以外の人間とかどうでもいいから、有象無象にどんな賞賛をされたって特別心には響かないんだけど、ゆりちゃんの隣で歌う女の子は、いつだってみんなからキャーキャー言われて超絶映えてる最高のアイドルであるべき、でしょ? 「みんなめるめるビームで死んだんちゃうん」  ゆりちゃんが私のスマホを覗き込んで適当なことを言う。短く切られた彼女の柔らかい髪が私の素肌に触れてどきっとした。近いよ。 「ひっどい、なんてこと言うの」  めるめるビーム☆ っていうのはアイドル湊音めるるの必殺技。元々はただ、ビームを食らった人はめるるのことが好きになっちゃう! ってだけの設定だったのに、ゆりちゃんが勝手に『食らっておいて好きにならなかった人間は死ぬ』とか公式の場で後付けしたんだよね。  ……つまり、みんな他界したってこと? ひどいんだけど!  そういえば、この前私のソロのために書き下ろしてくれた曲のタイトルは『LADY』で、浮気しないで! みたいな内容だったし、ゆりちゃん絶対私のポジションをそういう感じにしたがってるでしょ!? かわいいから余裕でパフォーマンスがんばるけど!  その代わり、ゆりちゃんに一番、私のことをかわいいって思っていてほしいんだ。本当にどんなことでもやるからさ。  どうして力を尽くす前から、自分が平凡だなんて思い知らなくちゃいけないの、そんなの絶対にナシだ。  サトリを開くのは、灰になる直前でも遅くない。  今日はインスタの伸びが悪くて萎えちゃうな。ゆりちゃん載せたらみんなまた喜ぶかな。いつも使っている加工フィルターガチガチ設定のまま、アプリのカメラをゆりちゃんに向けてみて……すぐにやめた。ああもう、これ、ないや。  今以上に顔痩せしたら不健康にしか見えないし、元々大きな目をさらに大きくしたってバランスが悪いだけだ。ゆりちゃんの顔が、既に完成されきっていることの証明。それならまだ、盛ってます感満載で振り切ってるプリクラのほうが逆に気にならないって感じまで、あるかも。  リアルな感触を残したままの加工は彼女に粗ばかりを残す。現実の方がいいって、嘘でしょうふざけないで。  しょうがないからゆりちゃんの後ろ姿、綺麗に丸い後頭部でも載せときます。ハートフレーム仕様。はい匂わせ匂わせ。  あーあ。アイドル界隈の移民たち、みんな本当に、めるめるビームに撃ち抜かれて死んじゃったのかな。  気に入ってずっと使ってたはずの言い回しを、偶然見た友達のブログで我が物顔的に真似されていて、なんだかもういいやって気持ちになっちゃったこととかない? 別に怒っちゃいないし勝手にしてくれていいけど、もうあなたの記事とか読まないからね、って。  なんか今日もインターネットはむかつくんだよね。ってか毎日むかつく。  例えば、この同業者、私のやったことパクって自分で考えましたみたいな顔してんのかなー、とか、できればそういう疑いはかけたくないじゃん。疲れるし。疲れるのすらむかついてダメ。 「リリーちゃん!」  遠くで、声がした。  昨日見かけたばかりの、セーラー服の少女……伽音ちゃんだ。手を振って、こちらに駆けてくる。  

いやなんで……マジで? こんな時間に制服で出歩いて、補導されても知らないんだけど。

あーやっぱり、こういうやつが存在するし、インターネットと現実どっちも同じくらいむかつく。

あとなんか、マルメリ・マリイもお団子頭だったし、偶然なのは理解してるけど、お団子頭の女にろくなやつ、いないんじゃないの。あーもう嫌い。最低。 「また来たんかあんた……えらい元気で、よろしいことやねぇ」  ゆりちゃんがどこかうんざりしたみたいに返事をする。  いつかバレて性格悪いねって言われてもいいや、伽音ちゃんに対する、そのぞんざいで投げやりなさまがちょっと、嬉しかった。ざまあご覧! 「うちは忙しいの、暇なんやったら作曲の仕事代わってえや……邪魔するだけなんやったら帰りい」 「えーん、冷たい! リリーちゃんの曲聴いたのに!」

雑にあしらわれても、伽音ちゃんはめげない。まだなにか、ゆりちゃんに言いたいことでもあるわけ? 「新しい曲、聴いたよう、ちゃんと。リリーちゃんの音楽、すごいよねえ。わかるなあ、ほんとうに人間が大好きなんだね、伽音と一緒だね!」 「その感想はどうやろかと思うけど、ひとまず聴いてくれはったんはどうもありがとう」 「うんうん、新作もたのしみにしてるねー!」  伽音ちゃんが大袈裟に、ブンブンと手を振った。私の嫌いな、見た目不相応に子供じみた仕草だった。  そして、それから、急にすこし目を伏せて、なにかを思い詰めるみたいにして……微笑んだ。 「……でも、リリーちゃんの……白金ユリ子ちゃんの愛し方は、ちょっと壊れているから、いつか伽音が正してあげなきゃね……」  おぞましいくらいに、穏やかな声で、言うのだ。  この子は危ない、本能的にそう思った。自分だけがこの現実の解だとでも思っていそうな態度。

解と解がぶつかったとき、どちらかが散りゆくなんて結末は、きっと誰にも見えている。

私が守らなきゃ。この身がどうなったって、ゆりちゃんのことは、私が。

なんとしても、私が…………。  血が煮えてゆく。その温度だけに集中しすぎて、他への知覚が疎かになっていた、そのとき。 「ねえ、湊音めるるちゃん」 「……なに? 私?」  あまりにも唐突に、無関係だと思っていたはずの意識がこちらを向く。驚いて、私は自分を指さした。  さっきまでゆりちゃんと話していたはずの彼女が、しっかりと私のほうを覗き込んでいる。 「ねがいごと、叶えてほしい?」 「は? なんのこと?」  純粋無垢なその姿。狂人的な、脈絡のない、謎の問いかけ。こいつ、やっぱり、嫌いとかウザいとか以前に、得体の知れないヤバいやつだわ。 「取り戻したいもの、知りたいこと、本当はあるよね」 「ないわよ? それに、私にはゆりちゃんがいるから、そもそも願いなんて……」 「……それがね、深層心理を覗いてみると、案外あったりするんだよぅ」  なによ、なによなによなによ、私が間違ってるとでも言いたいわけ? だってそれ、私の記憶の話でしょどう考えても。  ていうかなんで知ってるの? いきなりなんなの? 気持ち悪い、気持ち悪い!  思い出せなくたっていいもん。私は今この意識で『湊音めるる』として完璧なアイドルとして……満足に生きてるもん!  だから、大丈夫だもん。大丈夫、大丈夫……。  私は、記憶の一部が欠けている。そしてどういうわけか、歳を取ることがないらしい。それに気がついた時期も理由も、わからない。いつからか私は『そうなって』いたのだ。  でも、ゆりちゃんは、なにも知らない私が好きだから、気が付かないフリをしていた。ゆりちゃんが安寧を得てくれるなら、本当に心から、なんにも苦しくはなかった。  ……ねえ、でも、私は誰?  人でないのなら、何者だというの?  ゆりちゃんは私のこの身体を……なにか知っているはずなんだ。どう思っているのかな。どうしてなにも教えてくれないのかな。  あの日のこと。ゆりちゃんとの、昔のこと。  雁字搦めに蓋をされている思い出。 「うっ」  考えれば考えるほど、全身が沸騰しそうになる。ずっと頭の奥が痛い、痛い、痛い。だれかが、思い出すなって、私に危険信号を出している。  キィィィィ──────ン  耳鳴り。ブラックアウトの直前みたいな、世界の浮遊感。  顔を、動かすと、伽音ちゃんと目が合った。 「大丈夫」  陽だまりにも似た、優しい微笑み。そこに慈愛さえ横たわっていそうな、肉体の存在感。 「あなたの願い、深層心理、伽音が叶えてあげるね」  なにもかも見透かされているように錯覚する。見透かしてるなんてばかみたいって、このまえ、おもったところ、なのに。そんなわけない、ないのに。  伽音ちゃんの指が私の手に触れる。彼女は心底幸せそうに、いつまでも花咲く笑顔で。  頭が痛い。頭が、割れるように痛い。目眩。嘔吐感。足に力を込めて、なんとか倒れまいとする。  深層心理? バカ言わないで、そんなもの、あるわけない。私のねがいごとはゆりちゃんの幸福のみ。わかりきったことをわざわざ訊かないでよ。  笑っていようと決めたのに。ゆりちゃんがいる限り、大丈夫でいようって、決めたのに……。  世界はずっと昔から、真っ白だった。  目が覚めたら真っ白な病院……だなんて。現実はそこまでシネマティックに美しく整ってはいない。緩慢に目を開ける。視界に広がるのは黒ばかり。私はその中央に座っているらしかった。裸足の指でゆっくりと黒いカーペットを撫でる。閉め切られた黒いカーテンの隙間から、僅かに陽が射している。昼間なんだろうけど、明かりはついていない。暗い、というよりはとにかく黒い部屋だった。  体が重くて立ち上がれない。膝を抱えたまま、ぼんやりと部屋の中を見回す。この場所に、きっと私のものはひとつもない。逃げ出さなければ死んでしまうような気さえした。  私は誰なんだろう。どうして、いつから、こんな、気味の悪い部屋にいるのだろう。すべての気配が、音が、私を責め立てていた。  部屋の隅に、キーボードが置かれていた。白と黒の鍵盤、それを見ていると、心臓が、そこから送られる血の一滴一滴が、吐き気を催すほどに粟立った。白と、黒。世界の色。  わからないよ、今も目に入ってくる色ならいくらでもあるし、人間が認識できるのはなんと一千万色。それなのに、それなのに世界の色は白と黒。その答えが、私のどこか柔らかいところに、深く植わっている。  私は鍵盤楽器の弾き方なんてわからない。弾いてみたいとも思わない。だって、こういうのは『私じゃない方』の役割だ。『私たち』にはいつもしっかりと役割分担があって、これは『あの子』が、やっていたことだ。  ………………。  ……………………。  …………え?  今、あの子って。  あの子って、誰だろう。  麻痺している。私の記憶に、知っているはずの世界に、なにか不自然な膜が覆いかぶさっている。  あの子、あの子…………。  思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せ。  あの子……脳の奥を掻き回して姿を探す。いる、きっといるはずなんだ。  思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ。  いるはずなんだよ、音楽が好きで、ピアノが好きで、黒い色が好きな、だれかが……。 「ゆりちゃん」  喉が、知らない言葉を押し出した。 「ゆりちゃん……!」  声が、無理やり身体の外へ弾けてゆく。咳をするにも似ていた。  ゆりちゃん、たしかにそう呼んだ。ゆりちゃん。  不思議だった。舌に乗せても違和感はない。ずっと、たしかに、そう呼んでいた気がする。ゆりちゃん。 「ゆりちゃん、ゆりちゃん……」  今度は、私の意思で名前を呼んだ。  会いたい。顔も知らないけれど、とにかくその『ゆりちゃん』に今すぐ会いたかった。触れていなければ、死んでしまいそうだ。  そうまでなる理由は、わからない。思い出せない。ゆりちゃん、あなたは何者なの。私は、何者なの。 「ゆりちゃん、どこにいるの!」  半狂乱になって喚くと、すぐにだれかに手を握られた。冷たい、骨張った手。  私は悲鳴をあげて、その手を振り払う。この部屋に自分以外の人間がいるだなんて、気が付いていなかった。いつから、いたの。さっき、部屋の中を見渡したときはいなかったのに。 「そんな、邪険にせんといて」  もう一度、すこし強い力で手を握られた。  私は驚いて顔をあげる。視界に入る相手の顔。大きな目。機械的に整った容姿の、女の子だった。 「うちがその “ゆりちゃん”やけど」 「ええ……?」  息を飲む。「ゆりちゃん」は思っていたよりずっと小柄で、思っていたよりずっと、ずっときれいだった。 「おはよう、める、うちのこと覚えてない?」  肩を撫でられた。私の身体は一瞬、こわばる。 「自分の名前は、わかりはる?」  私は首を振った。める、って呼ばれた、それが名前なんだろうか。思い出そうと頭を絞ると、脳髄が軋むようだった。 「名前は『湊音めるる』、めるって呼ばれてたんよ」 「める……」 「そう、めるはアイドルで、歌がほんまに上手くて、うちがつくった曲を歌ってくれてた」 「私が……?」 「うん、たしかに夢みたいな話やとは思うけど、事実やね」  ゆりちゃんが今度は、私の頬を撫でる。じっと目を見て、私のことを教えてくれる。  私、める、は、アイドル。ゆりちゃんは、私の曲を……作って……。  記憶を過る、さっき見た鍵盤楽器。白と黒の世界が回り出す。  ゆりちゃん……ゆりちゃん、頭の中で反芻するたびに、耳鳴りがした。 (ゆりちゃん)  ……だれ? (また一人にしてごめんね)  ……このこえは、だれの、こえ。 「ねえ、ゆりちゃん……私、あなただけは、知っている気がする、でも、本当に、元の私が知っていた、ゆりちゃんでいいの?」  さっきから、鼓動の音がうるさい。息が上がりそうになる。  ゆりちゃん。たった一人だけ、刻み込まれていた名前。覚えてなくても、わかっていた。舌に馴染む、あなたの名前を呼んで、今の私が目覚めたんだ。 「ええ。うちのことだけわかってたら上出来やわ。汐留ゆりは、白金ユリ子は、いつだってうちだけよ」 「そう…………」 「めるはうちのことだけ覚えててくれたらええ」  そうなんだ。そう、なんだ、ね。言われてみればそんな気もした。  いくつかの記憶、都合のいいシナリオだけが、次々と私の中に芽吹いていく。花散る先まで、うつくしく、遠く。  暑くもないのに、背中を、冷たい汗が伝っていった。 「でも、わ、私……まだ、頭がぼんやりして……私、ちゃんと、生きているの……?」 「うん、生きてる、ここにいる」  握られた手、その温度。初めて呑み込んだ新しい世界のこと。  浮遊感が消えない。足元がユラユラと揺らめいている。まだ、私の魂は、この肉体に定着していない、そんな心地だった。 「どうして……どうして……なにも、わからない」  不安だった、恐ろしかった。誰かにそばに、いてほしかった。 「わからんでもええよ。めるはアイドルなんやから、またうちのために歌ってくれたら、それでええよ」  細く冷たい指先が、私の髪に絡まった。  すぐに、ゆりちゃんの柔らかい唇が私の唇と重なる。少し、遅れて、目を閉じた。途端に視界がまた暗闇になる。それは今の私には怖いことで、ゆりちゃんの腕を、縋るように強く掴んでしまった。 「めるが、全部忘れていられるように」  これは、そんなおまじないらしかった。呪いだった。祈りだった。ゆりちゃんからの、祝福だった。  あなた以外を何もわからない。世界はずっと遠くまで真っ白だ。なにもないから、純潔で純白を守れる。

私の担当カラー、背負う色だって、白だったらしい。  ゆりちゃんが望むなら、記憶なんて不完全なままでいい。  ゆりちゃんが望むなら、無駄な感情なんて要らない。  ゆりちゃんが望むなら、どんな嘘にだって騙されてあげる。  ゆりちゃんが望むなら、誰に愚かと笑われても構わない。  ゆりちゃんが望むなら。  ゆりちゃんが望むなら。  ゆりちゃんが望むなら。  私は私を殺したっていい。  ……でも、ゆりちゃんのために。  私はもっと世界を知っていたい。あなたを守りたい。そのための刃は多いほうがいいに違いない。  あなたがどんな人でも軽視しない。咲いては朽ちる命から、逃げて、塞いで、現実なんて閉ざして。  ほんとうは、あなたのすべてを、覚えていたい。 だって私は変わらないもの。  通り過ぎる違和感、肌の感覚。穢れのない私をもっと求めてよ。  記憶を取り戻した私があなたに謀反するとでも思う? それよりもあなたを拒んできたものたちを、みんな壊してしまいたいわ。  ずっとそばにいる。ずっとずっと一緒よ。ずっとずっとずっとあなたの、望むだけを捧げる、永遠の存在でいるわ。  私はなんだって、演じ切れるもの。 「あはは……はははは!」  乾いた口から漏れる笑い声。私は笑っていた。嗄れた、異様な音だった。耳に入る自分の声は、男とも女とも、老人とも子供ともつかない、気味の悪いものだった。悲しくて、哀しくて、無様なほどに心が掻き乱されて、只管に叫いている。  全部、全部思い出した。わかってしまった。  ありがとう伽音ちゃん、やっぱりあんたなんか大嫌い。  感謝するわ。呪いの言葉で、恩返ししてあげるわ。  こんなに簡単に、単純に、解はほどけた。その他愛なさは罪悪にも似ていた。  ねえ、ゆりちゃん。ずっと私の隣にいてくれたゆりちゃん。  この心臓はもう、あなたのためにしか、動いていないんだよ。  徒や疎かにできない、言葉の端まで。あの夢は、妄想なんかじゃない。夢占いの示す、深層心理の現れでもない。  現実だったんだ。  間違いなく、痛いほどに、“ 死ぬ前の私 ”がこの目で見た、世界だったんだ。  あらゆる情報が一度に流れ込んでくる。私は込み上げてくる嘔吐感をただ堪えていた。胃のあたりが熱かった。  記憶の奔流に溺れそうになる。突然現れて私をこんなふうにした伽音ちゃんを恨みたくなる。それでも、最初から最後まで、すべての思い出を必死に辿る。  「お前は魔女だ」「神に逆らう呪いの女め」「殺してやる」「気持ち悪い」「魔女は生きていてはいけない」そんな雑音が、記憶の中で受けた罵倒が、耳のそばから離れてくれない。  それでも、痛みを、苦しみを、思い出すことを拒みたくはなかった。目を背けたくない。だって、だってあなたが、たしかに、その先に『いる』はずなんだ。  あなたがいるから、生きてきたんだ。 (新曲できたし聞いてくれへん?)  音楽の、天才だと思った。 (める、なんやったらうちの家来てもええよ)  きっと誰より、優しく、されていたんだ。 (うちはインディーズで宗教作ってられたら満足やけど)  いつも、ずっと隣にいてくれた人。  高くてかわいい声。柔らかに訛るイントネーション。 (そんなにめるが武道館行きたいんやったら)  ピアノの音がする。世界の、音がする。  ゆりちゃん。祈るように、名前を呼んだ。 (ちょっとそらなんとかせなあかんかなぁ)  きれいな、ひとだった。  笑うと、きゅっと吊り上がる大きな目が、好きだった。  ゆりちゃん……!  …………。  ゆりちゃんが大好きだった。  空っぽの私は、ずっとそれしか持っていなかった。  こんな私の歌を、最初に喜んでくれたのはゆりちゃんだった。 「めるはほんまに歌が上手いなあ」なんて言って、私のために、音楽を作ってくれた。  ゆりちゃんが人生をかけている「音楽」というものを、その有限の時間を、私のために、使ってくれていた。  ゆりちゃんがいたから頑張れた。  誰にも負けない歌をうたえるように、練習に力を入れた。誰よりもステージで映えるように、しなやかな身体を目指した。  この声も、外見も、全部、壇上でゆりちゃんの好きなように使って、踊らせてくれたらよかった。  当初に決めていた復讐じゃない、愛のために、舞うと誓った。  本当なんだよ。……。  なんて哀しいんだろう。記憶さえ戻れば安心できると思っていた。その代わり、私の心をゆりちゃんが占める割合は減ってしまうのかもと恐れていた。でも、悉に、それらは無駄な足掻きだった。

記憶が戻ろうと、私の中身が空洞であることに変わりはなかったからだ。

たしかに、記憶を失くしたせいで忘れていた思い出は幾つもあって、それでも、それ以前から、ずっとずっと、私の存在価値は、生きる理由は、何にもなかった。  生の無意味さを、思い知らされただけだ。失くした記憶に希望をかけていた幸せな私には、もう二度と帰れない。  育った家庭でさえ、最期まで散々な場所だった。  両親のことは嫌いではなかった。ただ、浅ましいと思っていた。

一家心中なんて笑っちゃうよね。夫婦揃って宗教に狂って溺れた結末がこれかよ。私を魔女だと罵る声がまだ耳にこびり付いている。お母さんが薬で自殺、お父さんが家に火をつけて、私を殺そうとして。私の命は、誰からも望まれていない存在だった。  なにが宗教だ神なんていない、いいやいるんなら、それはきっと、ゆりちゃんの姿をしている。  ゆりちゃんだけが世界だった。  誰に見捨てられても、誰も愛してくれなくても、私にはゆりちゃんがいた。ゆりちゃんだけがいた。ゆりちゃんの黒い瞳に私がうつっていたから、私がここにいることは確かなのだと、知ることができた。  それは、生まれ変わった今だって、同じことだった。  人は運命を繰り返す。終わりを繰り返す。命を繰り返す。  ふいに、首のあたりがひりついた。私がこの手で自ら刺し貫いた場所。赤い血、赤い炎、勿体ないほど鮮やかだった、死に際の色。ああもっとチョコレートみたいに、クロユリの花みたいに黒い方が、美しいにきまっているのに!  鉛のように重い舌が恨めしい。声を吐き出すまでに、甚く時間がかかってしまった。 「ねえ、ゆりちゃん……記憶……」 「わかってる」  なにも言わなくていい、そう言っているようだった。  月が、きれいだった。街明かりに埋もれて、たいして見えもしない、それでも、きれいだった。 「いやあ、かののん、無茶苦茶しよったな」  ゆりちゃんが乱暴に舌を鳴らした。最悪や、ぜんぶ台無しや……。ひとりでなにやらブツブツと呟いている。 「……殺してやる」  その声は、いつか聞いた呪いに、似ていた。  私はぎゅっと拳を握る。赤い夢、炎の夢、振り切りたかった幻。 「あんたなんか、殺して────」  ゆりちゃんの視線の先。伽音ちゃんは、いつの間にかいなくなっていた。  あとには、死後の世界みたいな色の、夜が広がっている。 「────あー、もし仮に、うちが先に死んだら言うたんねん、無惨な死体を見せつけて『いつかあんたもこうなるんや』って……」  掠れた、低く冷たい声だった。  風も絶えた、夏の夜の闇。街灯に照らされて石畳の上に伸びる、私の影とゆりちゃんの影。  ……息を吸った。  ゆっくりと、私に向き直る。 「……そういうわけですよ、改めまして湊音めるるさん」  ゆりちゃんの、ちょっと珍しいくらい気まずそうな表情。目を、合わせてくれない。やだよそんな顔しないでよ。わかってるよ、大丈夫だよ。 「あー、どこまで、思い出しはった?」 「ぜんぶ」  ぜんぶだよ。  あなたのかわいいところも、優しいところも、ぜんぶ思い出せたよ。  ああ、今すぐ抱きしめてしまいたかった。やめてよ、困らないでよ、いつもみたいに平然としていてよ。私がそんなことで、どうにかなってしまうと、なんで思うの? 「……うちのこと、恨んだやろ?」 「まさか」 「騙したな、って、思うたやろ」 「ううん、全然」  夏。この温度。特別だと錯覚したら、終わりなんでしょ。 「だって、今も昔も、私のそばにいてくれるのはゆりちゃんだけだもの。ずっと一緒にいようよ」  笑おうと意識しなくても、自然と笑みが零れた。だって、私のほうを向いてくれたゆりちゃんの顔があまりにきれいで。  今のは決して、ゆりちゃんの好みを、演じているわけではなかった。本当にそう思えたんだ。私、ゆりちゃんがいるだけで、やっぱり幸せだもん。 「ああ、そう!」  ゆりちゃんが、満足そうに口の端を釣り上げる。それが聞きたかったのだとばかりに。 「さすがや、さすがはめるや、それでこそ」  ああ、見たかった顔に戻ってくれた。さっきまでの冷徹な彼女はもういない。私は間違っていなかったんだ。かわいいな、ずっと笑っていてほしいな。  ……ねえ、ゆりちゃん、次はなにが欲しい?

「最低な理不尽ばっかりのこんな世界……」  静かに、ゆりちゃんが囁いた。 「こんな世界、うちとなら一緒に滅ぼせると思わん?」  出会った日のことをおぼえている。長い前髪、隠れがちだった大きな双眸。一緒に今のアイドル界、ぶち壊してみません? そう言って私の手を取ってくれたこと、おぼえている。笑って半月を描く目元。穏やかな声。今の私なら、ゆりちゃんのなにもかも、余すことなく、思い出せる。  真っ直ぐな横顔。強い瞳。ゆりちゃんは、汐留ゆりは、紛れもなく天才なんだ。  歌わせて。あなたのために。守れるものなどなにもないけど、それでも歌わせて。  私の痛みがすべて、徒爾に終わったとしてもかまわないから。 「……」

 ふいに、ゆりちゃんの唇が私の唇に触れる。  知っている感触。これは、呪いだった。絶対に解けない呪縛だった。目を閉じて、重ね合って、白も黒もなくなるほどに祈りを穢して。


「……はい、これでこの話はおしまいにしよ」  境界の曖昧なまま重なっていた影は、すぐに二つに分かたれる。  通り魔みたいな愛情にぜんぶ持っていかれて、悔しい思いをするたびに、なにもかもを攫っていく季節のせいにしちゃいたくなる。 「うん、大丈夫だよ、ゆりちゃん」  ルナティック、だれかが愛のかたちをそう呼んでいた。感情に名前をつけるのは難しいよ、私はあらゆる愛と名のつくものでゆりちゃんが好きだよ。  まだ柔らかく熱の残る唇を、私は開いた。ゆりちゃんに言わなければいけない言葉が、あるんだった。 「……ゆりちゃん、」  ……。…………。 「だいじょうぶ、ぜんぶ、わすれたからね」  これが、私からの、おまじないだった。  昨日までの私に、なれるからね。  私はあなたの、あなただけのアイドルだもん。  骨ばかりの薄っぺらな肩。私より二十センチ以上も背の低い、小さな体躯。このかわいい人を、ぎゅってしない世界は間違ってるでしょ?  大丈夫だよ、私だけは最期までそばにいるよ。  ゆりちゃんの顔は見えない。何を考えているのかわからない。ただ、愛しい小さな手が、私の髪を撫でる感覚だけがする。  いいよ、もっと支配して。塗り替えて。脳の奥から、なにもかも壊してよ。  ほら。いつだって、今日だって、世界はゆりちゃんの思い通りなんだからね。

「ねぇ、ゆりちゃん」  女の子に生まれて、本当によかった!  これは少女讃歌だ。人生賛歌だ。私はうたう。二度目の人生を謳う。 「大好きだよ」  大好きだよ、あなたが何者でも。  あなたがどんな虚像を纏っていたとしても。  あなたがいつか身を滅ぼしたとしても、ずっと。  ……ずっとね。

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