やあ! ボクの名前はNENEMU。インターネットを中心に、歌ったりお話したりして生きているよ。なんと、アイドル! まあ、普段は普通にOLなんだけどさ。常世真秀路って名前なんだけどさ。そんなものは世を忍ぶ仮の姿だっけ? そういうやつだよー。夜とかお休みの日とかに、ボクはボクにまとわりつく常識とかイメージとか人間の在り方とかを全部脱ぎ捨てる。なんのしがらみも持たないまま、本当になりたいボクになるんだ。もちろん激ヤバ納期のリアル仕事だって忘れちゃってさ! そのときのボクのことはどうか、NENEMUって呼んでよね。自由にかわいいあだ名をつけてくれても、勿論いいよ! みんな、今日もボクと、楽しい一日の終わりを始めよう! ♡ 派手なネオン。客引きに捕まるサラリーマン。立ち並ぶ雑居ビル。遠くに聴こえる笑い声。バイクのエンジン音。なんとなく、スーツの襟を正してみる。胸ポケットから社員証の紐が不格好にはみ出ていた。誰もボクを見ていない、存在が雑音となって掻き消えていく夜は、いくらかマシな心持ちでいられた。
パンプスのヒールがコンクリートを鳴らす、鳴らす。
この街は悪い街だ。廻る、流れる、巡る、季節を喰らって、幾多の命が渦巻いている。
今日はなんだか……家に帰りたくないや。一人が好きだけど、孤独はきらいだった。人間は怖いけれど、人の温度や気配は好きだった。 ちょっとだけ、遠回りして帰ろうかな。東京は魔窟、道を一本変えちゃうだけで、まったく違う景色が見えたりもする。 アーケードから逸れた先、雑居ビルの立ち並ぶ小さな路地。 煤けた壁、大きな看板。色褪せたカーテン。中身の入っていない鉢植え。 大通りに近い場所には、ラーメン屋とか、カードショップとか、比較的わかりやすい店が続いている。その一角、合法かどうかさえ不明の、薄暗いアイドルショップがあった。入り口から見える、非正規品も混ざっていそうないかがわしい売り場。 店先に置かれた、旧型の液晶の中で踊る、流行りのアイドルグループの女の子たち。 「…あ、」 そこで、ボクは撃たれたように息を詰まらせた。 泣き出したいとさえ、思った。なんでだよ。どうして、ここに。 『今大注目! 常世の国と一番近いアイドル』なんて取ってつけたようなかわいいゴシック体。安っぽいラミネートポップにファジィな夜が反射している。箱の中には惻隠が詰まっていて、みんなきっとそれが欲しいんだよね。大きな光沢紙にプリントアウトされたボクの顔写真が、天井から吊るされていた。青い布の敷かれた台の上、NENEMU名義のCDが階段状に積まれている。 いや本当はぜったいに信じたくないんだけど、この店の、今のイチオシは、NENEMUらしかった。 ああ、ボクの、感情以外すべてに、余さず値段がつけられている。どんな人がこの有様を受け止めていくのだろうか。ここに並ぶ限りボクを嫌いなひとの目にさえ身勝手に映る、ボクの生を閉じこめた遺影。ボクの瞬間瞬間を花と散らして埋葬して、命だったことを描き遺した、ボクの作品たち。SNSに溢れるアカウントをいくつも殺して、生き延びて、愛して、憎んで、誰だって好きなように触れてもいい質量。 苦しかった。許されたかった。 柔らかく、楽しいだけで生きていきたいけれど、切り取られたボクを封じた覆いが鋒と尖って、他者を傷つけることになり得ることも、わかっている。 だからこうやって、ボクの知らないところで、知らないボクが光を浴びているのが、いつだって恐ろしくて堪らないんだ。 ボクから剥がれたボクは、醜いくらいに彩やかで、綾をなしている。だれかが運命だって言ってくれたボクとの時間、存在、すべてと手を離すことなくきちんと肉体を宿して立っていなければいけないのに、ボクは、ずっと、怯えた顔のままだ。 本当はアイドルなんか、向いていない。 それでも、やらなくちゃいけなかった。辞めるわけにはいかなかった。ボクはこの世のなにを引き換えにしても戦うと決めたんだ、使命がある。恥を光で塗り替えて、傷を固めた血で埋めて、継ぎ接ぎばかりの浅ましい姿だとしても。 隣の台にも、その隣にも、たくさんボクとそう変わらない年齢の女の子たちの遺品が櫛比している。あの子はマカロンが好きで、あの子はさみしいと死んじゃって、あの子は永遠の十四歳。丸文字の名前が刻まれたブロマイドの遺影、少女はみんな特別だ。 それでも、ボクの中には誰よりも、特別だった少女がいた。 この大都会で、人の、あらゆる哲学の行き交う汚れた街で、彼女だけはフィクションのアニメみたいだった。白黒にしか見えない世界で、たった一人でRGB千六百七十七万色を有していた。どこにいたってすぐにわかる。世界を救う魔法少女とは、もしかしたら彼女のことだったかもしれない。……なんて。 舞美ちゃんって、名前だった。美しく舞うと書いて、マミちゃん。彼女の意識を彼女だけのものと区別しているその名前は、口にするたびにとても尊い響きがした。 舞美ちゃん、哀しいくらい大都会の真ん中に生まれて、それなのに過剰に人間との接触を恐れるボクの手を、ずっと繋いでくれていた子だ。 中学でも高校でも、明るくて優しい彼女のことをみんなが好きだった。さらに、ネットの配信でアイドル活動もしていたから、ボクたちのクラスなんかずっと飛び越えて、東京の向こうとか、もしかしたら海の向こうとか、果てしなく、舞美ちゃんを好きな人は存在した。 ボクなんかがそばにいて、迷惑じゃないのかなって、何度も熱に浮かされた。オペラグラスを通したって彼女の歌うステージには届かない。すべての愛を受け止めるにふさわしいブルー。舞美ちゃんのブルーが、宇宙だった。 ボクのことを友達だと言って笑ってくれる、かわいくて素敵な子。ボクのせかい、ボクのただひとつの美しい記憶。 舞美ちゃんこそが尊いアイドルだった。 舞美ちゃんはとにかく、特別な女の子だった。 でも、アイドル「だった」し、特別「だった」のだ。 毎日、学校に行けば彼女は笑っていた。帰り道にそれとなく手を振って別れても、また次の日にはボクの斜め前の席に、座っていた。そんな景色がずっと続くのだと、飽きるほどに、同じ季節は巡ってくるのだと、思っていた。 だから、彼女のいない春も夏も秋も冬も、ボクにはそのすべてを、受け入れることが容易ではない。 高校二年生。ある日から舞美ちゃんが学校に来なくなったことなんて、家で首を括っていたことなんて、ボクは絶対にみとめることが、できないんだ。 舞美ちゃんは生きている、何度ボクがそう言ったって、誰も取り合ってくれなかった。「真秀路ちゃんは今強いショックを受けているから……」と、みんながボクにいたわるような目を向けていた。 それはそうだ、そうかもしれない、けれど。 舞美ちゃんを消したくない。人は二度死ぬというじゃないか。友人に忘れ去られることが死だと、言うじゃないか。 ボクが死ぬまで舞美ちゃんを歌いつづけていよう。舞美ちゃんは永遠だ。ずっと、ずっと生きている、それを証明しよう。 ボクに翼をくれた舞美ちゃんと、手をつないで生きていきたい。 高校を出て、大学生になったあたりで、ネットアイドル『トコヨトコ』が誕生した。舞美ちゃんになるための、舞美ちゃんに贈る、ボクの精一杯の姿だよ。 『トコヨトコ』はそれから二年はインターネットの仮想世界で歌い続けて、そのうちに上がりすぎたハードルをなんとか技術でカバーするため、さらに二年の活動休止武者修行を経て、名義を『NENEMU』に変更して復活して、バーチャルのボクは今に至ります。 常世の国から来たアイドル。イメージカラーはブルー。 好きな食べ物はアイスクリーム、趣味は廃墟巡り、年齢は非公表です。 今、こうやって活動して、強く生きようって、舞美ちゃんのために頑張ろうって、前向きにやってるみたいに聞こえちゃうよね。そう在れたらよかったんだ。 どんなに色々なうたを歌っても、音の中にどんなものを放っても、舞美ちゃんがボクの中から消えない。「忘れない」の範疇を超えて、ほとんど寄りかかるに近い形で、舞美ちゃんに縋ってしまっていた。 ボクの心臓の上には、いつだって彼女がいる。 ボクは、一人では、立っていられないくらい脆かった。 キミがいたから、少しだけ世界が怖くなかった。キミが手を引いてくれたから、雑踏に紛れたって大丈夫でいられたんだ。 「……ボクを許して、舞美ちゃん」 この街は、とっても悪い街だ。 元々、子供の頃から他人より「見えやすい」人間だった。へんなものを、凡そこの世のものではないものたちをたくさん見てきた。けれど、ボクがトコヨトコになり、NENEMUになり、舞美ちゃんの影をなぞり始めてから、見えるだけではなくなったんだ。 声が、聴こえる。 ボクの意識に向かって流れ込んでくる。 ボクに手を、伸ばしている。 いつからか、蠢く影たちと、話ができるようになっていた。 この大都会の中で、こんなにもたくさんの人がいるのに、『彼ら』のことは、ボクだけしか知らないみたいだった。 孤独。手に入らないものを埋め合うために、ボクたちは互いの前に現れたのかもしれないね。 だって、ボクには全部見えてしまう。全部聞こえてしまう。街に巣食うもの、誰にも理解されないものたち。高架下、廃ビル、屋上、路地裏の隅。さみしいと言っている。ヒトになりたいと言っている。この存在を、認めてほしいと、赦してほしいと。 ……本当は、生きていたいのだと。 彼らは救いを求めている。だれかに手を差し伸べられる時を待っている。許しを乞う、寂しいばけものたちだ。みんなみんな、ボクと似ていた。だから、近付いてしまった。寄り添ってしまった。
安寧を、救済を、彼らに望んでいるのは、きっとボクのほうだった。
世界に押しつぶされそうになるたび逃げ込んでしまう場所、それが廃墟だった。彼らの傍だった。
友達はどのくらいいる? そう訊ねられるたびに、多いほうだよって答えているんだ。本当は、ほとんど、人間じゃないけど。キミには、見えないけれどね。みんな優しいから大丈夫だよ。 ボクは全世界に向けて、進んで『彼ら』の話をした。 リスナーのみんなが興味を持ってくれるたび、彼らの存在が許されていくのを感じた。喜ばれ、歓迎されている。ボクにはそれが嬉しかった。 彼らが受容されると、連動してボクの存在までもが許されたように錯覚してしまう。暗闇に潜む彼らと、人間に上手く馴染めないボクは表裏一体。ボクは、孤独な、ばけものだ。 悪いものだとしても生きているから、存在するから。どんなものであっても誰からも見放されているのは哀しいと、自分のことを思うから。彼らのことを思うから。だから。 「やあ! みんな元気かい? 常世の国のNENEMUだよ!」 慣れた挨拶。それでもいつだってすこし緊張する。 常世の国のNENEMUだよ、もう一度、空気中でなぞってみる。この言葉を吐いたが最後、ボクは真秀路からNENEMUになるんだ。半端な欲動じゃカメラの前で死ぬだけだよ。絶対に逃げられないし逃げはしない、覚悟の一声。 「今日もね、ボクが出会ったお友達の話をするよ!」 『待ってました』 『NENEMUちゃんのオカルト話ほんと好き』 『期待してます!』 更新されていくコメント。本来、ボクは他人から自分へ向けられるレスポンスが、否定も肯定も無関係に怖かった。リスナーの数だけの銃口が、ボクに照準を合わせているように見える。いつも、生放送をするとダメになりかける。……でも、それは常世真秀路の話だ。 NENEMUはアイドルなんだから、そんなこと考えない。 NENEMUは強い。挫けない。余計なことに気を取られたりしない。 弱いままの真秀路をライトの光に沈めて殺して、前を向いた。大丈夫。コメント、ちゃんと、読める。眩い世界でも目を開けていられる。 「あ! もし聞きたい話とかあったらコメントしてね!」 笑え、アイドル。笑え! 『ネネちゃんの話ならなんでも聞きたい』 『この前言ってた女の足ってまだ見えます?』 『一番怖かった話とか!』 目が回りそうになるくらい、どんどん縦スクロールで更新されていくコメント。 『NENEMUさん、心臓のない画家の話って知ってますか?』 その中でも、一際、ボクの目に焼き付いてはなれなかった一文。 心臓のない、画家……。 『マイナーだけどネネさんなら知ってそう』 『なにそれ知らない』 『kwsk』 『えー怖そう』 ボクが返事をするよりはやく、コメント欄に話題が展開されていく。大都会よりも人の溢れた、この箱庭の中。 「心臓のない画家かあ」 あの瞳が、どこかにいる。 「背の低い、おかっぱ頭の子だよね」 あの日の記憶が、きれいな、透明の糸みたいになっている。 「……うん、会ったこと、あるよ」 それより先の言葉は見つからなかった。 ♡ その人は、少年だか少女だかわからない、不思議な風貌をしていた。廃墟、ボクのお気に入りの、崩れかけた廃ホテル。仄暗い屋根の下。ひび割れた床板の上に、彼は立っていた。音もなく、匂いもなく、ただそこに在るように。 大きな絵画を画架に立てかけて、静かに色を乗せていた。四角い板の上に次々と美しい膜がかかっていく。世界が生まれている。それはとても、幻想的な光景だった。
彼の周りを、時折、見たこともないような青い蝶が舞って、過ぎてゆく。 「……あなたが、真秀路、さんですね」 ボクが一言も話せないままで、立ち尽くしていると、彼がゆっくりと振り返った。透徹しきった空気。なにもかもを見られている、気がした。 「どうして、ボクのこと……」 暗いこの場所、目の前に、彼の姿と絵画だけが浮かんでいる。 彼の心臓があるはずの場所、胸のあたりは空洞で、向こう側の景色がはっきりと見えていた。人間では、なかった。 「ああ、すみません。この場所に棲う『彼ら』が、口を揃えてあなたのことを仰るものですから」 ……そう、ボクは今日だって『彼ら』に会いに来たんだ。ボクの友達。ボクの安楽。 人ならざる彼は、どうしてか、彼らの仲間のようには思えなかった。ボクは彼のことをなんにも知らないが、ずっとこの場所にいるわけでは、ないような気がする。どこか別のところ……たとえば異世界から来たと言われても信じてしまいそうなほど、異様な気配を纏っていた。 それでも……彼とは、友達になれたらいいな、なんて思った。だってこんなに綺麗な絵を描くんだもの。だって、こんなに優しそうな眼をしているんだもの。だって、ボクの友達のことを、話してくれるんだもの。 「僕は絵を描くために時々ここへ訪れるのですが……あなたの神聖な場所だとは知らず。お邪魔してしまいました」 「え、ええと……ここ、ボクの場所とかじゃないから、『みんな』がいいなら、いいんじゃないかな……」 彼がキャンパスを片付けようとするのを、ボクは両手を振って止めた。まだ、ここにいてほしかった。その美しい世界の構築を、ボクがいるせいでやめてしまうなんて、絶対にいけない。 「……驚かないのですね」 「ボク、人間が、怖いから。キミみたいな存在のほうが、安心するよ」 その言葉に、彼は一瞬だけ目を丸くした。それからすぐに微笑んで、答えてくれた。 「案外、本質は人間と変わらないかもしれませんよ」 ボクには、その意味は、わからなかった。 だって、人間は群れをなしていられなければ、石を投げてくるんだもん。人ではない『彼ら』はみんな孤独で、だからこそ他者を慮ってくれる。 「……ところで」 画家がこちらに向き直った。今日はまだ彼らの気配はしない。静寂が、雪のように、つめたく降り積もっていく。 「あなたに、亡くなってしまった大切な人はいますか?」 「…………」 ボクは、咄嗟に答えられなかった。下を向いて、目を泳がせて、息を吸って吐いて、それから、頷いた。 「え、うん……いるよ、一応、いる」 みっともないくらい動揺しているボクの姿勢を、彼は気にする素振りもなく、淡々と質問を続ける。なんだろう。今まで見た中でも、かなりへんな、ばけものだった。 「その方は、あなたにとって、どんな人でしたか」 ……。どんな人だったかって。 どんな、人だろうか。目を閉じて、暗い世界で、考える。舞美ちゃん。ボクの友達。同じクラスだった。みんなに愛されていた、誰よりもかわいいアイドル。いつも笑顔で、明るくて、カラコンなんて入れなくっても大きな目、真っ白な肌、内巻きのショートカットがよく似合う女の子。ボクの運命を変えてくれた人。ボクを救ってくれた人。なにもできないボクの手を繋いでいてくれた人。
それから、それから。それから。
なんにも、言葉なんて、足りやしなかった。どんな言葉なら、どんな想いなら、彼女の輪郭をはっきりと描けるだろうか。 もっと頭がよかったら、もっと言葉を知っていたら。ボクは、苦しくて、また俯いた。 そうして、喉から絞り出せた答えは「ボクの、大好きな人だよ」なんて、あまりに月並みで、陳腐すぎるものだった。 だって、全部が、好きだった。眩しかった。この世界、きみだけが……舞美ちゃんだけが、光にいたんだ。だから、たしかに、うつくしかった。 こんなので、伝わるわけがない。それなら、言わないほうがマシだったかもしれない。
ふと、同業の……数少ない人間の友達が、とても難しい言い回しをたくさん知っていることを思い出した。そういえばボクの周りはみんな、頭がいい。みんな、ボクより要領よく話すことができる。口を噤んで、なにも言えないのは、いつもボクだけだ。ボクはボクの言葉を、好きになれない。 じっと黙っていると、絵描きの彼は言う。 「僕の本業は、死者の肖像を描くこと。よろしければ……その方を描かせては、いただけないでしょうか」 舞美ちゃんを……? そんなものを頼んで、何になるのだろう。舞美ちゃんが隣にいない事実の証明を、わざわざ手元に置きたくなんてない。 ……それでも、この柔らかい気配を纏った彼が、繊細な色をキャンパスに塗り重ねていた彼が、どんなふうに彼女を描くのか、見てみたいと思った。大切な人、そう、舞美ちゃんはボクの特別なんだ。優しい命になりたかった。ボクはただ無力で、泣きたかった。 お願いします、何度も言いかけて、そのたびに抑え込んだ。 「……いいや、気持ちだけで充分だよ、本当にありがとう」 ボクには使命があるんだ。心臓の音。いつだって、この身体が死へ向かうための音。 「……ボクは舞美ちゃんを忘れない、だから彼女は死なない。舞美ちゃんはずっと、ボクと、ボクの歌と一緒に生きている。だから絵とか、そういうものはない方がいいんだ、ごめんね」 いのちが浮かんでいく、匂い。星は死んだあとも悲しまれない。きれいな光になって、だれかに、また祈られる。 「……そうですか、そんな愛も、また美しいものです」 不思議な青い蝶がまた一匹、ボクの前を飛び去って消える。
画家は穏やかに、笑っていた。 ♡ アイドルロックがテーマのライブイベント『サンクチュアリ!』の、パンフレット用コメントの未提出者がボクだけだと、主催さんから連絡が来てしまった。あああ本当にごめんなさい。どういうことを書けばいいのかわからなくて、及び腰のまま、気がついたら今日になっていたんだ。嘘じゃないよ。 そもそも、イベントのお誘いが来たときだって「ボクが⁉」って叫びそうになって、慌てて飲み込んだのは、記憶に新しい。夢じゃなくて、幻覚でもなくて、目を擦っても消えていなかった。宛先に、たしかに「NENEMU」って、ボクの名前が書いてあったんだ。その名前で呼ばれちゃったらもう、常世真秀路は腹を括るしかないから、承諾したのを覚えている。 「……」 ……ユリ子、今、暇かなあ。 すこし前までCASで騒いでいたのを見たし、多分、今なら、忙しいわけじゃ、ない、よなあ……。
躊躇いがちに、電話をかけてみる。どうせ繋がらないと思っていたのに、二コールもしないですぐに通話開始の画面になった。 『は? なに? 真秀ちゃん? 嫌やわあーうち今忙しいねんけどなー』 聴きなれた、癖のあるかわいい声。いきなり責めるように捲し立てられて、ボクは縮こまる。 「え、ご、ごめん……」 『あー、忙しくない忙しくないから謝らないでね、しおちゃんさっきまで私の家に上がるなり寝てたから』 続いて……意外な人が割って入ってきた。優しい、他者を慮ることにかけては筋金入りの、ボクもよく知っている女の子。 『ちょっとマリイさん勝手に取らんといてくれへん⁉』
ユリ子の抗議する声がノイズに混ざってやや遠くから聞こえてくる。言われてみればこの二人いつも一緒にいるよなあと、穏やかな気持ちになってしまって、目を細めた。 『……で、ええと、ネネちゃんどうしたのー? 私に言いにくいことだったら全然言わなくていいんだけど……』 こういう言葉をすぐに取り出せる彼女のことを、ボクは本当に尊敬している。いたわりの一言があるかないか、そういう細かな違いでも、救われる人はいるんだよ。 「ま、茉莉ちゃん……?」 『うん、私だよ。ごめんね、しおちゃん、寝起きいっつもあんなんだから、気にしないで』 あ、うん……とか、気にしてないよ……とか、口篭って返事をしながら、なんとか話を続けた。 「えっとね……『サンクチュアリ!』のコメント……書いてないのボクだけって言われて……でもどうすればいいのかわかんなくて……」 悪いことだって、わかってはいるけれど。つい甘えてしまう。茉莉ちゃんの優しさに、許されたいと、思ってしまう。 スマホ越し、茉莉ちゃんは「大丈夫だよ」と言ってくれる。その柔らかな思い遣りに、安寧を得られた人は、これまでにどれほどいただろう。 『ネネちゃんの言いたいこと、自由に書いていいと思うよ。ネネちゃんがみんなにどんなことを思っているのか……それがわかっただけで、喜んでくれる人たちはきっといる』 「そ、そんなので……いいのかな……」 ボクはいつだって自信がない。だから、もっと、茉莉ちゃんの声で、大丈夫だと、慰めてほしかった。自分を、大丈夫だって言いたかった。 『いいんだよー、私はネネちゃんのことが知れたら、うれしいな』 優しいなあ。ボクも、そういう言葉が使える人間に、なれたらなあ。年下だけど、茉莉ちゃんはボクの憧れだ。 以前、ユリ子の相方のめるちゃんが、茉莉ちゃんを「あいつは優しいんじゃなくて病気なのよ」なんて蔑んでいたことがあった。茉莉ちゃんの、いないところで。めるちゃんが正しいとか間違っているとかは、分からないけれど、少なくともボクはそう思わない。彼女に救いを求めて群がる、ボクみたいな人間こそ、ほんとうに病的だと、思う。 『私のでよかったら参考に、送ろうか?』 「え、いいの?」 つい、上擦った声が出てしまった。 ふと、まるで高校時代にノートを見せてくれた舞美ちゃんみたいだ……なんて考えそうになって、すぐにやめた。茉莉ちゃんは、茉莉ちゃんだよ。 『この前しおちゃんが家に来たとき一緒に書いたから……ちょうど写真撮ってるし二人分送るね、複数人の例があると参考にしやすいよね』 『え? ちょっとマリイさんもしかして「サンクチュアリ!」のあの怪文書の話してる?』 『うん、どうせ後でみんな見るんだしネネちゃんに送るけどいいよね』 『あかん』 『……あ、ごめん送っちゃった』 『マリイさん嫌い、サヨナラ、離婚やわ』 『じゃあ今日はもう帰っちゃう?』 『や、泊まります』 スマホの向こう側でなにやら揉めている。いつものことだ。ボクの手元が振動した。茉莉ちゃんから、メッセージ受信の通知。 「あ……来た。ありがとう」 『全然! またわからないことがあったらいつでも聞いて』 「うん」 『じゃあね、ネネちゃん、またご飯行こうね』 「うん……」 電話が切れた。ボクはスマホを持ったまま、しばらく呆然としていた。 それからすぐに、大事なことだったと思い出して、LINEを開く。茉莉ちゃんとのトーク画面。
震える指で画像をタップ。赤と黒。二人分の手書きの文字が、お菓子箱の中みたいな賑やかさで、画面に広がった。
『曲作りたくないと言い続けて今年アルバムの二枚目を出しました。これからも曲は作りたくないです。でもきっと三枚目は出ます、いつもありがとう シオドメユリ』 角張った、殴り書きのような読み辛い文字。 その真下には、対照的なくらい、止め跳ね払いのしっかりした流麗な筆致が連なっていた。 『私がここに立っていられるのもみなさんのおかげです。マルメリ・マリイを続けさせてくださってありがとうございます、あなたたちの存在が私の光です。これからもより良く命を奏でられるように。きっと祈りの心で。マリイ』 二人の、後ろに背負っているものなんて見えない。何もないかもしれないし、ボクなんかには想像さえかなわないほど壮絶なものがあるのかもしれない。それでもそんなことは関係なかった。幸せに頼らなくても、可哀想を被らなくても、しっかりとアイドルだった。 彼女たちは友達だけど、同じ戦場を見据えている、もっとちがうなにかでもあった。打ちひしがれる。泣きそうになる。そうして、実感する。 ああ、ボクも一応は“ こちら側 ”なんだな。 人間であるとかどうとか以前に、アイドルなんだ。挫けそうになったとしても、たしかに。 背を向けられない。舞美ちゃんには、もちろんそうだけど。茉莉ちゃんにも、ユリ子にも。真摯にありたい。ここにいるすべてに、そこにあるすべてに。 身体がこわばるのは、恐怖なのか決意なのか。考えている暇なんてなかった。震える手で、今すぐにやらなければと、コメントを書いた。ボクの、言いたいこと。 あまりに夢中だったから、そこに感情なんて生まれている余裕もない。 『ボクの音楽がボクの心です。自信も持てないままだったこんなボクを、大切にしてくれてどうもありがとう! これからも常世の国からみんなを見守っています! NENEMU』
ボク、なんとかやるよ。舞美ちゃん。
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