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第6話 ユリ子は全能

修学旅行を休むような子供だった。

古びた団地の端のほうで母と猫と暮らしていた。

夜でもあまり電気をつけない、真っ暗な部屋が私の箱庭だった。

音楽だけが好きだった。特にアイドルの、少女を、光の中に存在させるため手折られてゆく楽曲に、ひどく憧れていた。  いつか、この手で、だれかを意のままに、美しく完結させたいと思っていた。 「ちょっと、ユリ子ちゃん、今日も学校行かへんつもりなん」 「体調、悪いから」  旋律をなぞるとき、私は半分くらいの感覚を、別の“ 私 ”に預けてしまっていた。『カイ』という意識。ギリシャ文字の二十二番目。  カーテンを締め切った四畳半の地球で青白く光る古いデスクトップパソコン。作曲ソフトさえあれば、綾をなす私の世界。私以外の人間が入ってこない領域。  それなりの受験戦争を勝ち上がって入学した高校ではあるけれど、呆気なく、半年でこうなってしまった。まあ、どうせそんなものだろうという予感は、最初からしていた。  白金さん、ユリ子ちゃん、どうして学校を休みがちになってしまったの、なにか嫌なことでもあった? 勉強がわからない? 人間関係のトラブル? どれも何一つ違った。まあご大層に、口々に、私なんかを気にかけてくれてどうもありがとう。全員大嫌いです。みんな同じだから大丈夫だよって共感こそ、なにもわかっていない。  こんな歪んだ空間で。ただ、音楽が、それだけが、世界だった。  人間なんて、皮膚を隔てた内側に、なにを隠しているかわからない。自分がそうだから、他人もきっとそうなのだ。同じ色の血が通っているとは、心臓をならしているとは、限らない。  キーボードの上を滑る手。割れた爪、白い肌、葉脈のように浮き出た血管。人間が人間であるとおりに生きて、群れをなしてひたすら死へ向かってゆく、そのさまが質量が、気持ち悪くて堪らない。  くだらない命。人はいつか死ぬだなんて、ゆるせない。はやく、嘘でもいいから、真実をくれよ。  私がはじめて音声合成ソフトUTAUで作った、少女『めりぃ』は永遠そのものだった。私の声を、プラグインの技術に乗せて出来上がった、うたを歌うための音声ファイル。キービジュアルのイラストは、たしか一万円くらいかけてインターネットの絵師に描いてもらった。  私の考えた最強のツインテールのアイドルが、画面越しに私を見ている。めりぃは死なない。電脳世界からコンタクトを受けただれかの、記憶に心に残り続ける限り、彼女だけは生きている。ずっと生きている。  私の歌を、彼女が歌う。私と彼女はルークとビショップ。お互いに手の届かないところを埋め合って、そうして世界になって、非情な真理をつくって、手を取り戦う。退屈してたんだよ、ずっと。  季節のない部屋。天井からぶら下がる、照明の黄色い紐。視界の端っこでぼやけている、色素の抜けた黄色い髪。ゆらゆら、揺れて、黄色が混ざり合う。孤独のかたち、鮮やかに禍殃を燃やし、私から声を奪う。  そもそも、私のインターネット音楽活動のはじまりは、とんでもない転落によって頂上を見せられている。  ネットに載せた散々な初投稿作品。遊び半分で、巫山戯た心意気で、当時爆発的人気を誇っていたバーチャルアイドル・トコヨトコのアルバム限定曲『まい♡まに』を言い訳不能なほどにパクってみた。  人生、刺激が欲しくて死にそうだったから。あと数ヶ月で十六歳になる私は、セーラー服より特別な記号を、この身に求めていた。  オマージュと言えるほどのリスペクトさえもない真っ黒な犯行。似たような耳ざわりのイントロ、言葉の羅列、転調、曲構成を使って、半匿名の投稿。反応待ちの愉快犯。  なのに私はきっと不幸だ。翌週の夜に双眸を突き刺した数字。晒しあげじゃない、単純な賞賛を映し出した再生数。どっかの有名絵師が褒めていたとか、そんなことで簡単に軌道に乗ったらしい。拡散最速インターネット気持ち悪。  少し待てば、そのまま滑るように殿堂入り。話題性を求めた歌い手たちが競うようにこの曲を歌い出す。神曲認定。大当たり。  期待の新鋭・カイ様。……誰だよそれ。  程なくして、トコヨトコは「新しい自分を見つけてきます!」とリスナーに言い放ち、二年間を目処に活動を休止した。  トコを失った狂信者たち。音楽に神経までをやられた、トコの曲が心臓まで染み込んで抜けなくなった哀れなソサエティは、喪失感という傷を癒すため、だれかを次々に扇動する。 『この転調、トコの再来では?』 『ボカロ声苦手じゃないならトコのファンにこそ聴いてほしい』 『トコっぽい曲を探しているならカイがオススメ』  膨れ上がるシンパサイザー。この街はもう終わりだ。  崩れかけた憫然たる崇拝者たちによる、身勝手な、賞賛の形をした蹂躙。善意さえ、数の多さは暴力となる。  根本から間違ってんだよ、私はトコの音楽を悪意的に足蹴にしただけであって、あんたらに有り難がられる言われなどない。トコなんかいなくたって、私は私で、この心臓を、めりぃを、音楽を、永遠の少女として閉じ込めることくらいできる。  ただの、攻撃性だった。私の持ちえた、鋭い敵意。それらが形になって、刃になって……メロディにピアノに旋律に、変わった。  そのまま、引き続き『カイ』のアカウントで投稿してしまった、今度は完全なるオリジナルの二曲目。カイであることの匿名性が、ひとつ薄れた。これで終幕にしたかった。それなのに。  私の思考とは無関係に、欲の方が終わらなかった、終わってくれなかった。ああ三曲目、四曲目。

止まらない群衆の怪奇な賞揚。

さらに、新しい刺激を求めるあまりVOCALOIDにまで手を出した。ボーカルに有名キャラクターの名前を借りたことにより、私の楽曲の知名度は、人気は、さらに上昇した。あんなに大切だった、永遠の象徴としていた、私の片割れだった、憧れだった、めりぃをあっさりと捨てて、五曲目、六曲目。  何度目かの冬、人より遅れて十八歳になった。選挙には行かなかった。なにもかもを踏みつけて、身体が端のほうから朽ちてゆく錯覚に囚われながら、音だけを奏でた。喝采、七曲目。ここまで来れば大抵のリスナーにとっての私は、もはやトコの埋め合わせではなくなっていた。  カイ様、カイ様、バーチャルに溶かした私の名前が、熱を持って呼ばれている。私ひとり、いつまでも、退屈なまま。  縋れるのならば誰だってよかった? トコと私の区別だって、ほんとうはついていないんでしょう。こんな碌に値札も付かない愛。どうせすぐに捨てるだけ、情もない。  生きていくたび、私だったはずのものが、知らない誰かにされていく。  永遠なんてない。どれだけ偶像的に崇められようとも、結局のところ残されるのは、気味の悪い、人の形をした器のみ。  快感にも似た、絶望がそこにあった。私の体内に横たわっていた。  仮想的自殺願望。強すぎる欲求。最期の愉楽。ねえはやく私を見て。私を、見て。もう止められない。ここから飛び降りて、なにもかも、劇的に終わらせてしまうから。  さようなら、それじゃあね、また来世! 『人はいつか死ぬんですよ』  十四万人のフォロワー、彼らの目前に突き付けた答え。  アカウントを消すだけの、なんともお手軽な死。  カイは、ファン待望のファースト・アルバムを出さないまま、人前に出ることのないまま、無惨に殺された。  私が殺してしまった。

 それは、きっと、どんな遊びよりも気持ちがよかった。  そうだ高校を出たら東京に行こう、と思った。  理由はよくわからない。ただなんとなく、どうしても、そうしたかった。  母親は私を音大に行かせたそうにしているけれど、この貧困母子家庭で、そんな大仰な夢みたいなことを言われたって困る。私がバイトを掛け持ちしたところで学費に届くわけもないし、これ以上、母親を働かせるわけにもいかない。第一、もう人間の人間の人間の姦しく犇めく場所で、無理やり規律に嵌め込まれるのは、ごめんだった。  昔から周囲より小さな手がコンプレックスだったことを、この頃に突然思い出した。

最近は母親か保健室の教師以外と接することがないから、比較対象が少なくてわからないけれど、今でも私の手はそうなんだろうか。守るように、隠すように、爪を伸ばして、常に黒いマニキュアを塗るようになった。黒い武器。どんな手を使ってでもすべてが欲しい。どんなものでも意のまま壊せる手、そういうものに、なれますように。


上京してから、もう一年半以上になる。 「このギター、そう、あのNENEMUさんからいただいたものなんですけど」  ガチャガチャと、適当に弦を弾いて鳴らしながらマイクに向かう。言葉を装填、軽く息を吸い込んだ。 「NENEMUさん……そう、トコヨトコさん……知ってますよねみなさん、去年復活した、あの人」 『知ってます!』 『復活うれしいですよね』 『知り合いなんて羨ましすぎますw』  更新されていくコメント。たまにお茶とか拍手とか、画面上にエフェクトが混ざる。 「最近はマリイさんにね、ギター教えてもろてるんですけど……いやダメですね~弾くことより背負ってどこか行くことにばっかり精を出してしまって」 『ダメじゃんw』 『マリイさんギター上手いですもんね~』 『セッションしてほしい』 『ほんとに仲良いですね!』  話すこと自体は好きだった。他人の内側を見ることなく、自分を開示し続ける。その癖は、露出魔にも似ている。  生配信。こちらは肉声で話し続ける。対して、有象無象の誰でもがコメントを投げられるけれど、すべて私の目まで届くとは限らない、そのアンフェアさが安心できた。楽しい。これをコミュニケーションって呼ぶから、陰キャラとか言われるのかな。 「うち、音楽なんか向いてへんのやと思いますけどね、なんで辞められへんのやろ……呪いかな……」  誰が聞いているとか、意識したことは特にない。これがもし、本当は誰にも届いていないで、空虚に声帯を震わしているだけなのだと知らされても、別にどうでもよかった。ただ、楽しい。今が楽しい。  テンションが上がって、調子に乗りすぎて、無意識のまま余計なことも言いすぎてしまう。アルコールより酔いそう。気持ちよく酔えそう。

手元のギター、下手くそなリフを掻き鳴らす。ああ楽しい楽しい。この世界で初めて、感情を音に乗せることを考えついた人は誰だろう。そのスタイルを当然と呼べる世の中にしてくれた人は誰だろう。讃えたい。天才だと思いますよ、私の次に。 「せやわぁ、うちはもうちょっと肩書きに囚われずこう~……音楽とか無関係なこともしたほうがええんとちゃいます? どうしよう、トレカの開封動画とか……やってみよかな……例えば……はい~みなさんどうも汐留です! 今日はホロレア狙いで三十個買ったわけですが!」 「ゆりちゃんうるさい!」  私が楽しく声を張った瞬間、廊下の方からよく知った声が飛んできた。  続いて、いつもより威圧的な音像を連れて近付いてくる足音。 「夜十一時過ぎたらギター弾かないって言ったでしょ!?」 「あーヤバいヤバいヤバい」  ギターのピックをとりあえず置いた。わざとらしく手を止めて、誰にともなく助けを求める私を、皆が笑っている。もはや見慣れたエンターテインメント。 『めるちゃんwww』 『お母さんみたい』 『ヤバいですね』 『完全に親フラ』 『笑った』 『一緒に住んでることに嫉妬w』  これまでにない速度でコメントが伸びる、伸びる。めるはそんなこと知らない。私も本当なら知りたくはない。 「あとトレカとか言ってないで、ゆりちゃんは音、楽、で、やっていくんだからね!?」  めるの声が近付いてくる。私はマイクに顔を寄せて、顔のないオーディエンスたちに囁きかける。 「あかん、すいません、ちょっと、嫁がブチ切れてるんで、あのー続きはまた次回に……」 『聴かれてますねw』 『嫁www』 『めるちゃん…』 『笑った』 『なんで!?』 『こんな時間ですもんねw』 「それじゃあ……おやすみなさい……」  リスナーにもしっかり筒抜けている、めるの声。コメントがさらに

伸びてゆく。もう目で追い切れない。  まあ、こういう言い方をすると、ウケるって、経験から少しわかっていた。半分くらいは本気で焦って、残りの力で余興にする。

 バタン! 部屋の扉が開くのと、私が配信をオフラインにしたのは、ほとんど同時だった。 「なんですかめるさん、うちはなーんにもしてませんよ」  顔を上げる。芝居がかって、入口に立つ彼女に言い放つ。 「はいはい絶対嘘だからね、ほんとに、ロビーに騒音被害の貼り紙出てたの見てないの? そのうちゆりちゃんも貼り出されるよ」 「家から出てないんで……見てないですね……」  仁王立ちのまま、ステレオタイプなお母さんさながらの説教を繰り広げるめるの姿が、あまりにもおかしかった。手招いて、自分の座っている付近の床を叩いてみる。  めるはなにも言わないで、さっきまで怒っていたのさえ忘れたのか、すぐに私の隣に収まった。

最初から、その場所が自分の定位置だったのだとでもいうように。かわいい三角座り、サイズ感は私より一回りほど大きくて、あんまりかわいくない。  それでもやっぱり、めるはかわいかった。完璧なアイドルになることを目標とする彼女は、家にいたってそのかわいさに隙はない。彼女の動きにあわせて、長いウェーブの金髪が、私の肩や膝を撫でていく。 「ゆりちゃん最近めちゃくちゃ配信してるよね」 「うーん、なんか、ストレス発散的な?」 「そんなにストレス、溜まることある?」 「曲作りたくないんで……」  私の、おそらく他人よりはるかに広いパーソナルスペースなんかとっくにぶち抜いて、耳の近くで、声がする。それなのに、彼女にだけは、不快感をおぼえたことがなかった。  彼女の神経が私の神経にもなりうるほど、私たちはいつもどこかで、繋がっていた。 「せっかくギターあるんだから自分の曲とか、ライブでも弾いてみたら?」 「生演奏レベルで弾けへんもーん」 「えー、でも結構触ってはいるよね。本当はまあまあやる気あるんじゃないの?」  そう来るか……。 「配信で遊んでるだけやん、よう弾かんて」  永遠の少女。私はかつて、手に入りかけていた『それ』を壊した。めりぃという名前の……カイという名前の。  もっと違う、ほんとうの、永遠でなければ。  脳の奥を焦がすような欲が、渦巻いている。生き急いだって神はいない。  めるの丸い瞳が、私を捉えた。覗き込む。その双眸に映る私の眼は、なにを、見ているのだろう。 「ギターの音と心臓の音って似てへん?」 「わかんない」  私は、今だって永遠が欲しい。全てが欲しい。  そのためになら、なにを踏みつけても、破滅させても構わない。いつか誰かが、白金ユリ子こそ世界でいちばん幸せなのだと言ってくれるまで。  この衝動は、終わらない。 「ゆりちゃん、なにか、考え込んでる」  めるの、私よりずっと大きな手が、私の頬に触れる。彼女はときどき、私の底のほうまで見透かしていそうな鋭さを見せて……そのうえで「それでもいいよ」と言うのだ。それでもいい、嘘でもいい、と追従の姿勢を取り続ける。その果てしない愛情じみたものは、私にとって理解し難い感情だった。  私にそこまでの慈はない。彼女の性質を、ポテンシャルを、利用するだけだと、決めているのだから。  それでも、どうしても彼女のことを、かわいいと、思ってしまうのだ。なんとか手の届く場所に置いていたい。その長い手足も、カールした睫毛に守られた瞳も、毎日一時間かけてセットしている髪も、日本人離れした大きさの胸も、程よく厚い蠱惑的な唇も、全部、絶対に私のものだ。 「ねえゆりちゃん、いつの日か、永遠が欲しいって言ったよね」  心底愉快そうに、鈴を鳴らすように、笑う彼女。その時間は既に、止まったままだ。 「めるがずっと、ずっとそばにいるよ」  めるだけは死なないよ。めるだけはずっとあなたの歌をうたい続けられるよ。めるだけが、ゆりちゃんの味方だよ。 “ 世界 ”の音が、私の体内で、反響していた。  あー。  今、最高に心地良いな。

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